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横浜地方裁判所 平成5年(ワ)1998号 判決 1998年4月22日

《目次》

当事者の表示

主文

事実及び理由

第一章 原告の請求と被告の答弁

第二章 事案の概要

第一 本件の事案

第二 教科書検定に関する法制度とその運用の認定(争いのない事実及び証拠上容易に認定することができる事実を含む。)<省略>

第三 本件の事実経過に対する争いのない事実及び証拠上容易に認定することができる事実<省略>

第四 争点と当事者の主張<省略>

第三章 争点に対する裁判所の判断

第一 憲法上の自由権に関する争点について

一 教育内容の決定権能に関する憲法解釈等について

二 教育の自由(憲法一三条、二三条、二六条、教育基本法一〇条)を侵害するという主張について

三 表現の自由(憲法二一条一項、国際規約(B規約)、児童の権利に関する条約関係)を侵害するという主張について

四 教科書検定制度は検閲又は出版の事前抑制(憲法二一条二項)に当たるか

五 学問の自由(憲法二三条)を侵害するか

六 適正手続の保障(憲法三一条)について

第二 本件検定処分における運用違憲・運用違法の主張について

一 本件検定処分の運用違憲について

二 本件検定処分における運用上の違法について

第三 文部大臣の裁量権とその範囲(違法性判断の基準)について

一 検定権限の限界

二 文部大臣の裁量の基準

第四 検定意見の内容に関する認定

一 認定の必要性

二 検定意見の定義と認定の方法

三 「テーマ(6)」に対する検定意見の内容

1 「テーマ(6)」の全体に対する検定意見

2 天皇逝去報道と湾岸戦争関連記述に対する検定意見

四 「テーマ(8)」に対する検定意見の内容

1 「テーマ(8)」の全体に対する検定意見

2 「テーマ(8)」の個別記述に対する検定意見

第五 原告の主張する違法違憲の検定意見の範囲について

一 原告の主張の趣旨

二 「テーマ(6)」における「違法」な検定意見

三 「テーマ(8)」における「違法」な検定意見

第六 「テーマ(6)」関係の検定意見の適法性又は違法性

一 「テーマ(6)」の本文記述

二 「考えてみよう1」の「特別番組を当初三日間続ける予定だったのを、途中で二日間に変更した」という記述部分は事実に反するから、素材として適切ではなく、修正の必要がある。」という検定意見の適法性について

三 「天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等には、その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても記載する必要があり、これらを取り上げれば、自ずと天皇制という大きな問題をも取り上げざるを得なくなり、その結果「現在のマスコミと私たち」という「テーマ(6)」の主題が不明確なものとなるから、天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等は、素材及び取扱いとしては適切ではなく、見直しの必要がある。」という検定意見の適法性について

四 注①と注②に対する「記述内容が事実であるかについては疑問があり、提出された適切な資料により事実の確認ができない場合は、記述の修正を求める。」という検定意見の適法性について

五 「テーマ(6)」の全体に対する検定意見について

第七 「テーマ(8)」関係の検定意見の適法性又は違法性

一 判断の対象としない検定意見

二 「テーマ(8)」の注②の記載と「脱亜論」の抜粋文掲載に対する「脱亜論の扱いが一面的であるので、それが書かれた背景事情をも考慮して記述を再考すべきである。」という検定意見の適法性について

三 「勝海舟の「氷川清話」の引用文も含めて、前後を端折って、都合に良いところだけを抜き出した感があるので、再検討をしていただきたい。」という検定意見の違法性について

四 「考えてみよう1は、高校生の課題としては無理があるから、掲載した資料の扱いとの関連で再検討していただきたい。」という検定意見の適法性について

五 注⑤の前段に対する「掃海艇派遣は、湾岸戦争終了の後に、我が国の船舶の航行の安全を図るために派遣されたものであるという時期、目的の記載がなく、これを書き込む修正を行う必要がある。」という検定意見の適法性について

六 注⑤の後段に対する「掃海艇派遣に関して東南アジア諸国の意見を聞くべきかは疑問であり、原文記述はやや低姿勢であるから、見直しの必要がある。」という検定意見の違法性について

七 注⑤に対する検定意見に対する適用違憲の主張について

第八 検定意見通知の際の文部大臣の注意義務違反について

第九 不法行為と原告の損害

第一〇 結論

原告

高嶋伸欣

右訴訟代理人弁護士

青木勝治 青木孝 荒井俊通 猪俣貞夫 板谷洋

石戸谷豊 石黒康仁 市村大三 宇野峰雪 鵜飼良昭

野村和造 福田護 岡部玲子 高田涼聖 大塚達生

田中誠 大谷喜與士 岡村共栄 岡村三穂 中込光一

大倉忠夫 岡本秀雄 大河内秀明 大川隆司 小沢弘子

川原井常雄 木村和夫 林良二 北田幸三 本庄正人

日下部長作 久保田寿治郎 輿石英雄 小林將啓 小長井雅晴

小林俊行 寒河江晃 佐久間哲雄 三宮正俊 佐藤嘉記

佐藤昌樹 陶山圭之輔 宮代洋一 佐伯剛 星野秀紀

小野毅 小賀坂徹 陶山和歌子 鈴木繁次 鈴木裕文

瀬古宜春 関博行 武下人志 高橋理一郎 湯沢誠

左部明宏 武井共夫 鈴木義仁 滝本太郎 竹中英信

茆原洋子 長瀬幸雄 中野新 西山宏 根本孔衛

杉井厳一 篠原義仁 児嶋初子 岩村智文 西村隆雄

南雲芳夫 藤田温久 三嶋健 長谷川宰 野村正勝

中込泰子 馬場俊一 花村聡 広瀬正晴 福所泰紀

藤村耕造 森田明 古川武志 本田敏幸 本間豊

増本一彦 増本敏子 間部俊明 宮澤廣幸 村野光夫

森田三男 山内忠吉 稲生義隆 根岸義道 堤浩一郎

岩橋宣隆 山田泰 森卓爾 小口千恵子 影山秀人

高橋宏 畑山穣 川又昭 矢島惣平 山本祐子

山本一郎 山本安志 小村陽子 山本一行 山本英二

横山国男 伊藤幹郎 岡田尚 星山輝男 飯田伸一

小島周一 三木恵美子 芳野直子 杉本朗 山崎健一

米山安則 渡邊一成 若林三郎 渡邊利之 渡辺智子

大谷豊 宮田隆男 大西瑞穂

被告

右代表者法務大臣

下稲葉耕吉

右指定代理人

新田智昭

外一三名

主文

一  被告は、原告に対して、金二〇万円及びこれに対する平成五年七月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

事実及び理由

第一章  原告の請求と被告の答弁

第一  原告の請求の趣旨

一  被告は、原告に対して、一〇〇万円及びこれに対する平成五年七月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  仮執行の宣言

第二  請求の趣旨に対する答弁

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

三  仮執行の免脱宣言

第二章  事案の概要

第一  本件の事案

本件は、教科書出版会社である一橋出版株式会社が、従前発行していた高等学校公民科現代社会の教科書「高校現代社会」を平成五年度から使用すべく全面改定した「新高校現代社会」の原稿本を申請図書として、文部大臣に対してした教科書検定審査の申請に対して、平成四年一〇月一日に行われた検定意見の通知において、共同執筆者の一人であった原告の執筆した「現在のマス−コミと私たち」及び「アジアの中の日本」と題するテーマ学習用の各記述について複数の検定意見が通知されたところ、原告が、教科書検定制度が違憲であり、その制度の運用又は手続が違憲又は違法であり、かつ、右の複数の検定意見の通知が違法であるとして、被告国に対して慰謝料一〇〇万円の支払を求めた国家賠償請求事件である。

第二  教科書検定に関する法制度とその運用の認定(争いのない事実及び証拠上容易に認定することができる事実を含む。)<省略>

第三  本件の事実経過に関する争いのない事実及び証拠上容易に認定することができる事実<省略>

第四  争点と当事者の主張<省略>

第三章  争点に対する当裁判所の判断

第一  憲法上の自由権に関する争点について

一  教育内容の決定権能に関する憲法解釈等について

1 憲法二六条の解釈と教育内容の決定権能

(一) 教科書検定制度における国の権能の性質

前記第二章第二及び第三の認定からも明らかなように、教科書検定制度は、文部大臣が、小学校、中学校、高等学校及びこれらに準ずる学校において使用が義務付けられる教科書の適格性を判定し、その検定を経た図書に対してのみ教科書としての出版、流通を許す制度であるから、その趣旨、目的に照らせば、この制度は、国が一定の範囲で教育内容に介入することを容認し、検定基準の運用を通じて国が教育内容の決定に関与することを容認する制度であるということができる。

原告は、このような教科書検定制度が憲法上の各種自由権に抵触する旨主張するので、以下、順次判断を進めることとするが、まず、右のような国の教育内容に対する介入権能又は教育内容の決定権能に関する憲法上の根拠について検討する。

(二) 判例の存在

もっとも、この点に関しては、当事者双方が主張するように、既に最高裁判所の判例が存在する(最高裁判所昭和五一年五月二一日大法廷判決・刑集三〇巻五号六一五頁、最高裁判所平成五年三月一六日第三小法廷判決・民集四七巻五号三四八三頁、最高裁判所平成九年八月二九日第三小法廷判決・民集五一巻七号二九二一頁参照)。原告は、国の教育内容の決定権能等に関する最初の判例となった右最高裁判所昭和五一年五月二一日大法廷判決は、昭和三六年度全国中学校一斉学力調査を違法ではないとしたものであり、それがそのまま教科書検定制度に対する判断となるものではないと主張するが、右判例における教育内容の決定権能の帰属等に関する憲法判断、特に国の権能に関する憲法判断は、本件の教科書検定制度における国の権能に関する憲法判断と共通するものであることは明らかであり、現に、本件と同じ教科書検定制度に関する訴訟であったいわゆる家永訴訟に対する最高裁判所平成五年三月一六日第三小法廷判決と最高裁判所平成九年八月二九日第三小法廷判決においても、前記昭和五一年五月二一日の判例の考えが踏襲されていると認められるから、判例としてはある程度明確に成立しているということができる。

当裁判所も、教科書検定制度における国の教育介入権能又は教育内容に対する決定権能に関する右の最高裁判所判例の各判断は相当であると考えるので、基本的にはこれを踏襲し、専ら国の教育に対する権能について次のとおり判断する(なお、この第一の一の1、2において、「」内は、法文を引用する場合を除き、前記昭和五一年五月二一日の最高裁判所判決の判決文を引用したものである。)。

(三) 子どもの教育に関する憲法規定

憲法二六条は、一項において「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」とし、二項において「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と規定するが、右の規定は、法律の定めるところにより教育を受ける権利がすべての国民の憲法上の権利であること、その保護する子どもに法律の定めるところにより普通教育を受けさせることはすべての国民の憲法上の義務であることを宣言するものであって、当然ながら、福祉国家の理念に基づき、国が積極的に普通教育に関する設備その他の法制度を設けて国民に提供する責務を負うことを前提とするものであり、したがって、親の義務とされる子どもに対する義務教育は、国費により運営すべきものであって、これを無償とする旨規定するものであるが、「この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである。」

したがって、このような憲法二六条の規定とその考え方からは、「このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。すなわち、」「子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続によって決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを、」憲法二六条の規定が「直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにも」ないのである。

(四) 解釈の方法

公知の事実によって考えるに、本来「子どもはその成長の過程において他からの影響によって大きく左右されるいわば可塑性をもつ存在であ」り、「どのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすものである」から、「子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、それぞれその教育の内容及び方法につき深甚な関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張するのは、極めて自然な成行きということができる」が、もともと「子どもの教育は、」「専ら子どもの利益のために行われるべき」ものであるから、実際には困難があるとしても、憲法的観点から見れば、「本来的には右の関係者らがその目的の下に一致協力して行うべきものである」と考えられる。このような観点からみれば、憲法が直接的に明言しない教育内容の決定権能については、「それぞれの主張のよって立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈態度というべきである。」

(五) 国などの教育権能

このような解釈の観点に立って考えると、まず親は、「子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち、子女の教育の自由」(主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由等)「を有すると認められ」、また、「私学教育における自由や」「教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定する」ことができる。

すなわち、教師については、日常的に児童生徒と接し教育の現場を預かる教育専門家であって、憲法上の観点でも、前述の「子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者」であることは明白であり、「専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべき」であると考えられる(もっとも、「普通教育においては、児童生徒に」授業内容を批判する能力がなく、「教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有すること」、また、「子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること」等を考慮すると、「普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは」できない。)。

また、原告が主張するように、教科書の執筆者(発行者を含む。以下同じ。)も、その教科内容に関して専門的知識等を有し、また教育的配慮をすることができる者であるということができるから、やはり前述の「子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者」の範囲に含まれ、教科書の執筆という一定の範囲内で教育内容に対する発言権を有すると考えられる(もっとも、前述のとおり、普通教育においては教科書は主たる教材であって、これを通じて児童生徒に対して強い影響力を持つことができ、児童生徒には教科書を選択し、又はその記述内容を批判する能力が乏しいという関係があることは、教師における場合と同様であり、一方では教育の機会均等を図り全国的に一定の水準を確保しなければならないとする普通教育における特有の要請は、内容の正確性、立場の公正・中立性、児童生徒の心身の発達に応じて系統的に組織される教科課程に即応すべきとする教育的配慮の必要となって、主たる教材たる教科書の記述においても一層強く求められると考えられるから、教科書執筆者にも完全な教育の自由を認めることはできない。)。

以上のほか、普通教育を始めとする全国的に実施される教育に関しては、「一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと」解するのが相当である。もっとも、「政党政治の下で多数決原理によってされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によって左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入については、できるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができる」が、これらのことは、「前述のような子どもの教育に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由」となるものではない。

(六) 以上のとおり、憲法解釈として、国は、国民全体の意思を決定、実現すべき立場にあり、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心に応えるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有すると解されるが、反面、国の教育に対する介入は、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして党派的な政治観念や利害によって支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があるから、できるだけ抑制的であることが憲法上要請されるし、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するような介入は、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないのである。そして、このような憲法解釈と憲法上の要請は、前述したように文部大臣において教科書検定制度を通じて教育内容に介入する場合においても、当然に適用されるものということができるのである。

2 教育基本法一〇条との関係

(一) 右のような国の教育に対する憲法上の権能は、教育基本法との関係ではどのように理解されるべきかについて検討するに、この点についても前記昭和五一年五月二一日の最高裁判所判決が詳細に述べており、当裁判所も基本的に右判例の考え方は相当であると認め、これを踏襲することとする。

(二) すなわち、この法律の前文と各規定の内容の趣旨を見れば、教育基本法は、教育関係法規の中で中心的な位置を占めるものであることは明らかであるところ、形式的には通常の法律であるから、「これと矛盾する他の法律規定を無効にする効力を持つものではないけれども、一般に教育関係法令の解釈及び運用については、法律自体に別段の規定がない限り、できるだけ教基法の規定及び同法の趣旨、目的に沿うように考慮が払われなければならない」。特に同法の前文は、「憲法の精神にのっとり、民主的で文化的な国家を建設して世界の平和と人類の福祉に貢献するためには、教育が根本的重要性を有するとの認識の下に、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的で、しかも個性豊かな文化の創造をめざす教育が今後におけるわが国の教育の基本理念であるとしている。これは、戦前のわが国の教育が、国家による強い支配の下で形式的、画一的に流れ、時に軍国主義的又は極端な国家主義的傾向のあったことに対する反省によるものであり、右の理念は、これを更に具体化した同法の各規定を解釈するにあたっても、強く念頭に置かれるべきものである」。

(三) ところで、教育基本法一〇条一項は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」と規定しているが、この趣旨は、教育が国民全体の信託によって行われるものであるという考えの下に、国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきであり、その運営においては、「不当な支配」に服するようなことがあってはならず、専ら教育本来の目的に従って実施されるべきことを宣言したものと解することができる。この趣旨から見れば、ここで排除されるのは、右の意味において自主的に行われるべき教育の在り方をゆがめるような「不当な支配」であって、そのような支配である限り、その主体のいかん、態様のいかんは問うところではなく、教育行政機関が行う行政措置であっても、右にいう「不当な支配」に当たる場合があり得ることは、解釈条理上一応明らかである。したがって、前記憲法解釈上の国の教育内容に対する介入権能が承認されるとしても、それはできるだけ抑制的であるべきであるという前述の憲法解釈の趣旨と概ね一致すると解することができる。

(四) 次に、同法一〇条二項は、一項を受けて、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない。」と規定するが、この趣旨は、教育が不当な支配に服することなく国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものであるという自覚に立つときには、自ずと右の意味において自主的に運営される教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立が教育行政の目標となるべきものであることを宣明したものであると解することができる。したがって、ここにいう「諸条件の整備確立」を教育施設の設置管理、教員配置等のいわゆる教育の外的事項に関するものに限定されるとして、前述した憲法解釈と憲法上の要請の下で、許容される目的のために必要かつ合理的と認められる範囲において、国がその承認される教育内容決定権能に基づき、教育行政として行う教育内容に対する介入施策の決定実施をすべて排除する趣旨であると解することは相当ではない。すなわち、前述のように憲法解釈上、国民全体の意思を決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、子ども自身の利益の擁護のため、又は子どもの成長に対する社会公共の利益と関心に応えるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有すると解されるのであるから、これらの権能が教育行政として法律又は法律の委任により実施され得ることは、これを前提としなければならないのであって、この前提の下に、一〇条二項においては、教育が「不当な支配」に服することがあってはならないという自覚に立って、教育行政の目標を教育の目的遂行に必要な諸条件の整備確立に置くべきことを宣明したものと解されるのである。

したがって、前述の国の教育内容の決定権能に基づいて、教育行政権力が行う必要かつ合理的な範囲における教育内容に関する施策決定とその実施は、もとより不要、不急の介入は排除されるべきであり、教育に対する「不当な支配」に該当するものは許されないが、教育内容に対する施策であるという理由のみで、同法一〇条二項に抵触するということはできないのである。

3 以上のとおり、憲法上、又は教育基本法上、国には、一定の範囲で教育内容への介入権能ないし教育内容の決定権能が認められると解されるが、本件審判の対象たる文部大臣の行う教科書検定制度が右のような国に許容される介入権ないし決定権能の範囲内のものといい得るか否かは、改めて検討する必要がある。そこで、教科書検定制度に関して検討することとする。

(一) 公知の事実によって考えるに、一般に、普通教育の場においては、児童生徒の側にはいまだ授業の内容を批判する十分な能力は備わらず、学校、教師を選択する余地も乏しいと認められる上、そのような状況下で、国の教育施策は教育の機会均等を図る必要があり、かつ、教科課程とその内容も、児童生徒の心身の発達段階に応じたものでなければならず、内容の正確性と立場の中立・公正性が求められ、地域、学校のいかんにかかわらず全国的にある程度一定の水準であることが要請されるということができるのであって、このことは、子どもの年齢により程度の差があるとは推認されるが、小学校、中学校の延長線上にある高等学校の場合においても基本的には異ならないと考えられる。したがって、右のような普通教育の場で主要教材として使用される教科書についても、当然にその内容において、正確性、立場の中立・公正が要求され、教育の機会均等の要請から内容における一定の水準が維持される必要があり、かつ、子どもの心身の発達段階と理解能力に応じた内容と記述方法、系統的組織的な学習に適するような各教科課程の構成とこれに即した内容の選択及び組織配列が求められるという教育的配慮が必要になるものであるということができる。

(二) ところで、前記認定のとおり、学校教育法二一条一項(同法四〇条、五一条、七六条で準用する場合を含む。)の規定は、文部大臣に対して、小学校、中学校及び高等学校その他これに準ずる学校において使用を義務付けられる教科書に対する教科書検定の実施権限を与えており、同法八八条の規定に基づいて制定されている検定規則(文部省令)は、専ら文部大臣が行う教科書検定の手続等を規定し、更に実施細則(教科用図書検定規則実施細則(文部大臣裁定))は、その実務的な運用の在り方を定めているが、これらの検定手続の実体規定となる検定基準については、右検定規則三条の規定に基づいて文部省告示として定められている。

そして、右検定基準の内容を見ると、前記認定のとおり、「各教科共通の条件」中の「範囲及び程度」において、学習指導要領に示す目標、学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いを過不足なく取り上げるものであることを要求するものであり、「選択・扱い及び組織・分量」においては、学習指導要領に示す目標、学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いに照らして、不適切なところその他生徒が学習する上に支障を生ずるおそれのないことを挙げているから、実質的な検定基準はむしろ学習指導要領の中にあるということができるのであるが、前記認定のとおり、現代社会科の学習指導要領の内容は、その科目においで学習上必要とされる一定の水準を概括的、理念的、抽象的に定式化したものであり、その理念的な部分も概ね相当と考えられるのであって、これは、高等学校の普通教育が地域間の特色の差異又は学校の異別などを超えて全国的に実施され、その普通教育たる性質上、ある程度一定した水準の維持確保が教育政策として求められ、しかも各種の教育的配慮の必要もあるところからくるものと認めることができる。そして、その基準の在り方は、概ね概括的であり、必ずしも具体化しない抽象的な大綱であると考えられ、弁論の全趣旨によれば、現代社会以外の科目における高等学校の学習指導要領も概ね同様であり、また、小学校、中学校における学習指導要領も、それぞれ児童生徒の心身の発達に応じて、同様の概ね概括的、理念的、抽象的な大綱としての性格を有しているものと認められる。なお、検定基準は、学習指導要領の基準とする以外にも、複数の個別基準を有しているが、これらは、いずれも各教科における固有の必要性又は一般的若しくは個別的な教育的配慮等に基づくものであると認めることができる。

(三) 以上のような手続と検定基準によって運用される教科書検定制度は、前述したような実状から出てくる普通教育のとるべき姿ないし普通教育上の必要に基づくものと考えることができ、このような点に教科書検定制度の妥当性と必要性もあるものと考えられるのである。そして、このような教科書検定制度は、必ずしも国でなければできないとまでは言い切れないが、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にあり、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施しうる者である国が、子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心に応えるために、この制度を実施運営することは、概ね相当であると考えられる。そうすると、文部大臣において教科書検定制度を実施運営することは、一方では前述したとおり抑制的であることが憲法上要請されるものの、必要かつ相当と認められる範囲において憲法上許容されていると解釈される国の教育内容に対する介入権能又は決定権能の範囲外にあるということはできない。また、前述したような事情と理由によれば、教育基本法上も、文部大臣の教科書検定権限が適切妥当に運用される限りは、この制度の実施運営が教育に対する「不当な支配」に当たるということはできないというべきである。

二  教育の自由(憲法一三条、二三条、二六条、教育基本法一〇条)を侵害するという主張について

1 以上のとおり、文部大臣の行う教科書検定制度は、憲法解釈上国に許容される教育内容に対する介入又は教育内容の決定の権能の範囲に含まれると解されるが、なお、原告の「教育の自由」を侵害するとの主張の趣旨に鑑み、普通教育の場における教師の教育の自由と教科書執筆者の教育の自由との関連を考えることとする。

(一) 前述のとおり、教師は、日常的に児童生徒と接し教育の現場を担う教育専門家であって、憲法上の観点でも、「子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者」であり、教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの人格的接触を通じその個性に応じて行われなければならないという本質的要請から、教師には教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味において、教師にも一定の範囲における教授の自由が保障されるべきであると考えられるが、一方では、普通教育においては、教師は児童生徒に対して強い影響力、支配力を有する反面、子どもの側には学校や教師を選択する余地が乏しく、このような中で教育の機会均等を図る上からも全国的にある程度の一定水準を確保すべき要請があること等を考慮すると、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることはできないというべきである。

(二) また、教科書の執筆者も、その教科内容に関して専門的知識等を有し、また教育的配慮をすることもできる者として、やはり「子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者」の範囲に含まれ、教科書の執筆という一定の範囲内で教育内容に対する発言権を有する者と考えられるが、他方では、普通教育においては教科書は主たる教材であって、これを通じて児童生徒に対して強い影響力を持つことができ、児童生徒には教科書を選択し、又はその記述内容を批判する能力が乏しいという関係があり、教育の機会均等を図り全国的にある程度の一定水準を確保すべきとする普通教育における前述した特有の要請は、主たる教材たる教科書に対しても強く求められると考えられるから、教科書執筆者にも完全な教育の自由を認めることはできないというべきである。

(三) そこで考えるに、もともと右のような教師の「教育の自由」は、国が広く公教育の場で有する教育政策としての教育介入の権能又は教育内容決定の権能とは分野を異にする教育現場での「自由」であり、必ずしも文部大臣の行う教科書検定制度と本質的に衝突するものではなく、憲法論的には、教育政策と教師とは互いに尊重し合い、その長所を互いに生かし引き出すなどして、一致協力して憲法上の子どもの教育を受ける権利に応え、その充足を図らなければならないという関係にあると解されるのである。したがって、教科書検定制度は、憲法解釈上は、本来的に右の教師の「教育の自由」を侵害する関係にあると捉えることはできないと考えられる。また、教科書執筆者の右のような「教育の自由」については、前述のとおり、普通教育においては教科書は主たる教材であって、これを通じて児童生徒に対して強い影響力を持つことができ、児童生徒には教科書を選択し、又はその記述内容を批判する能力が乏しいという関係があり、教育の機会均等を図り全国的に一定の水準を確保すべきとする普通教育に対する特有の要請は主たる教材たる教科書の記述においても強く求められると考えられるから、教科書執筆者にも完全な教育の自由を認めることはできないのであって、検定基準は、前述のとおり、概ね概括的、理念的、抽象的なもので基本的には教育的配慮に出た要求基準であると認められるのであるから、教科書執筆者がその制約を受けることは仕方のないところであり、逆にまた、検定基準の内容が右のようなものである限り、教科書検定制度の下でも教科書執筆者がその「教育の自由」を発揮することは可能であると考えられるのであって、教科書検定制度が教科書執筆者の「教育の自由」を侵害するということはできない。

2(一) 原告は、子どもに対する教育の内容及び方法を誰がいかにして決すべきかという問題は、子どもの学習する権利に応え、その教育要求を十全に充足するには、いかなるシステムがより有効であるかという観点から判断されるべきであるとし、その観点からすると、子どもが創造性を含んだ発達可能態であるという教育科学の成果を踏まえ、子どもを主体とし個々の子どもに潜在する多様で無限の可能性を引き出しその全面的開花を助け育てる営みでなければならないから、このような教育の本質に照らし、教育の機能を十分に果たすには、教育の自主性、教育における自由が不可欠であって、国による教育内容への権力的介入は、右教育の目的の達成に不可欠な教育の場における創意、自主性、主体性を妨げるものであり、許されないと主張する。

(二) しかしながら、子どもの教育内容に対する決定主体を明定しない憲法二六条の解釈としては、子どもの成長に対する社会公共の利益と関心に関係する国民全体の意思、教育の機会均等に対する憲法上の要請、全国的に実施される普通教育における特有の問題など多方面の要素を考慮する観点が必要であり、子どもの学習権と教育要求を十全に充足する最も有効なシステムは何かという観点のみで右の憲法解釈を導き出すことはできない(もっとも、右のような観点の必要性は、それ自体は否定されるべきものではないが、それは専ら教育政策等で取り上げられるべき問題であると考えられる。)。前述のとおり、憲法解釈において、国に一定の範囲の教育への介入権ないし教育内容決定権能を認めることは、直ちに教育の現場における創意、自主性、主体性を妨げることにはならず、また、文部大臣による教科書検定制度の実施が、教師ないし教科書執筆者の有する「教育の自由」を妨げるものではないことは、前述したとおりである。

3(一) また、原告は、国による教育の内容及び方法への介入の許容は、教育の機会均等、教育の中立・公正、教育内容についての全国的一定水準の維持・向上等の理由の下に、画一化された一様の教育を施すことにつながり、党派的多数決の結果を強制する危険をはらみ、前記教育の本質に反することとなるとし、また、子どもの発達、学習要求の多様性に応じて、当然教育内容や教授の方法、教材にも多様さがあるべきであり、子どもに対する教育的配慮は、学問研究成果と教育学の研究成果に基づく学問的価値判断によるものであり、国ではなく、教育現場における教師や教科書の執筆者が良くこれをなし得るから、このような点は、国の教育内容及び方法に対する介入を是とする根拠とはならないと主張する。

(二) しかしながら、前述したような、許容される必要かつ相当な範囲における国の教育への介入は、できるだけ抑制的であるべきであるという憲法上の要請を受けているものであり、憲法論の問題として、当然に教育の画一化、一様化に結びつくということができるものではないし、また、多数決原理による政党政治による過剰な介入を防止しなければならないという憲法上の要請にも当然に応ずべきであるという考え方に立脚しているものということができる。

原告が主張するような教育の画一化が進行し、又は党派的多数決の結果を強制する危険が生じたとしても(いずれも本件ではそのような事実を認めるには足りないが)、それはあるいは教育政策上の問題として、あるいは抑制的であるべきとする憲法上の要請の遵守の徹底の問題として、それぞれ解決されるべき課題であるというに過ぎず、このことの故に右憲法解釈が変更されるべきものではない。

また、当然教育内容や教授の方法、教材にも多様さがあってしかるべきであるとする点は、教育の本質とその目的に照らして、これを十分に首肯することができると考えられるが、そのことは、前述した教科書検定制度の下において実現することができないわけではなく、このことも国の教育への一定の介入権能を否定する理由にはならない。更に、教師と教科書執筆者が、学問研究成果と教育学の研究成果に基づいて子どもに対する教育的配慮をより良くすることができるとする点は、そのことにより教師と教科書執筆者にも一定の「教育の自由」を認めることができるとする根拠となり得るものと考えられるが、これらはもともと国の教育内容に対する介入とは分野を異にするものであることは前述したとおりであり、国は、本来国民全体の意思を決定、実現すべき立場にある者であるから、当然教育専門家、学問研究者の教育に対する意見を聞いてこれを実現すべき立場にもあるのであって、国にそのことに対する適格性がないとはいえない。

4(一) また原告は、「教育の自由」とは、教育という営みに関与する国民の行為が公権力によって妨げられない権利、教育という営みに備わる公権力からの自由の要請であり、憲法一三条、二六条、二三条、教育基本法一〇条の諸条項によって、総合的に保障されているところ、公権力は、学校教育についての条件整備をすることによって教育を受ける権利を保障する責任を有するものであり、学校の種別や体系、修学年限、教員資格、学校設置基準等についての法制化、入学・卒業資格、各学校段階ごとの教育目的・目標、教科・科目の名称や単位数、標準時間数など、教育内容と密接な関連性を有する事項等に関する学校制度の法制化を図る必要があるという理由で公権力が教育内容それ自体を細部にわたって決定することは許されず、また、各教科の内容の規定までは必ずしも必要ではない筈であり、教科書の内容について公権力の規制を認める余地があるとしても、その規制の目的は、技術的事項についての水準確保や、頁数の規制などのほか、誤記、誤植その他の客観的に明白な誤りを排除することに限られなければならず、右限度を超えた介入を権力的に行うことは、教育の自由を侵害するものであり、教科書検定制度の運用においても、教科書原稿中に含まれる一見明白な誤りを排除したり、記述内容以外の事項についての規制をするにとどまらず、抽象的・多義的な検定基準を自由に解釈運用したりして教育内容に大幅に介入することは許されず、これを許している教科書検定制度とその運用は憲法の保障する前記教育の自由を侵害し、教育基本法一〇条の禁止する教育に対する「不当な支配」を行うものであると主張する。

(二) しかしながら、原告の主張する「教育の自由」は、これが前述した教師の有する一定の範囲の教育の自由、教科書執筆者の有する一定の範囲の教育の自由をいう限りは、これらはいずれも国の教育に対する介入権能を否定する理由とすることはできないことは前述のとおりであり、国の教育に対する介入権能が必ずしも教育諸制度の外的事項に限られるものではないことも、前述したとおりである。

すなわち、国が教育と学校制度について各種の法制度を設け、その運用を図ることは憲法二六条の予定するところであり、更に、前述した憲法解釈により国に認められるべき一定の範囲内での教育内容に対する決定権能に基づき、国が右の法制化において、学校の種別や体系、修学年限、教員資格、学校設置基準等のほか、入学・卒業資格、各学校段階ごとの教育目的・目標、教科・科目の名称や単位数、標準時間数など教育内容と密接な関連性を有する事項等を決定するとともに、教育内容に関する事項を決定することも一概に否定されるべきではないことは、前述した憲法解釈から当然に出てくる帰結というべきである。

更に、教科書検定に関しても、同様の観点から、技術的事項についての水準確保や、頁数の規制など教育内容に直接かかわらない事項のほか、誤記、誤植その他の客観的に明白な誤りを排除することなどに対象を限定しなければならないとする理由もない。前述のとおり、普通教育の場においては、児童生徒にはいまだ授業の内容を批判する十分な能力は備わらず、学校、教師を選択する余地も乏しい上、教育の機会均等を図る必要があるほか、教科課程とその内容も、児童生徒の心身の発達段階に応じたものでなければならず、教育内容の正確性、立場の中立・公正、地域、学校のいかんにかかわらない全国的な一定水準の維持などが要請されるのであって、右のような要請は、主要教材として使用される教科書についても、記述内容の正確性、記述の立場の公正・中立、記述の一定水準の維持、子どもの心身の発達段階と理解能力等に応じた内容選択及び組織配列などに関する教育的配慮の必要となって現れてくるものと考えられる。したがって、教科書検定制度は、このような要請と必要によって設けられたものということができ、国に許容される一定の教育内容に対する介入の範囲の外にあるということはできない。また、前述のとおり、検定基準の内の学習指導要領部分は、概ね概括的、理念的、抽象的な大綱としての指針であり、その余の検定基準はいずれも概ね各教科における固有の必要又は一般的若しくは個別的な教育的配慮等に基づくものであって、現場教師の教授における創意工夫や教科書執筆者における内容選択や記述の創意工夫の余地を奪うものとはいえず、国に許容される教育内容に対する介入の範囲の限界を超えるものとはいえない。また、基準自体が概括的、理念的、抽象的であることから、直ちにその基準の運用が恣意的になるというものではなく、単に右基準への当てはめ判定における裁量権の性質が専ら高度で教育専門的な判断に依拠する余地が大きいということになるにすぎないのである(もっとも、検定基準に対する当てはめ判定においても、後記第三に記載するとおり、国の教育内容への介入が抑制的であるべきとする前記憲法上の要請が適用されると解される。)。

また、文部大臣の教科書検定制度が教育基本法一〇条一項に規定する「不当な支配」に当たらないことは前述したとおりであり、その適切な実施が「不当な支配」に該当すると考えることもできない。

5 以上のとおりであって、教科書検定制度が教育の自由・自主性を侵害し、憲法二六条、一三条ないし教育基本法一〇条に違反するとの原告の主張は、採用することができない。

三  表現の自由(憲法二一条一項、国際規約(B規約)、児童の権利に関する条約関係)を侵害するという主張について

1 憲法二一条一項は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と規定して、いわゆる表現の自由を重要な基本的人権として保障している。そして、表現の自由は、民主的な社会におけるその重要性に鑑み、憲法の保障する自由権の中でも優越的地位を占めるものであることは概ね異論がない。しかしながら、憲法二一条の保障する表現の自由といえども無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による合理的で必要やむを得ない限度の制限を受けるものであり、そして、その制限が右のような限度のものとして許容されるか否かは、制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるものである(最高裁判所昭和四九年一一月六日大法廷判決・刑集二八巻九号三九三頁、最高裁判所昭和五八年六月二二日大法廷判決・民集三七巻五号七九三頁、最高裁判所平成四年七月一日大法廷判決・民集四六巻五号四三七頁等参照)。

ところで、前述のとおり、普通教育の場においては、児童生徒の側にはいまだ授業の内容を批判する十分な能力は備わらず、学校、教師を選択する余地も乏しいと認められる上、そのような状況下で、国の教育施策は教育の機会均等を図る必要があり、かつ、教科課程とその内容も、児童生徒の心身の発達段階に応じたものでなければならず、教育内容の正確性と立場の中立・公正性が求められ、地域、学校のいかんにかかわらず全国的に一定の水準であることが要請されるのであり、したがって、右のような普通教育の場で主要教材として使用される教科書についても、右の普通教育の実状から生ずる教育上の各種必要に応えるため、記述内容の正確性、記述の立場の公正・中立、記述内容についての一定水準の維持などの必要があり、子どもの心身の発達と理解能力に応じて系統的組織的な学習が可能となるように、各教科課程の内容選択と組織配列には教育的配慮が必要であるということができるから、これらを実現するために、教科書検定制度は、これらの観点から見て不適切と認められる図書を教科書から排除しようとするものである。しかしながら、右の排除は教科書という特殊な形態において発行することを禁止するに過ぎないのであり、教科書検定による右のような表現の自由の制限は、合理的で必要やむを得ない限度の制限と解することができる(最高裁判所平成五年三月一六日第三小法廷判決・民集四七巻五号三四八三頁、最高裁判所平成九年八月二九日第三小法廷判決・民集五一巻七号二九二一頁参照)。

2 原告は、公共の福祉による制限を認めるとしても、右制限の手続的要件は法律によって定められなければならず、ここには法治主義の原則が働くとし、教科書検定制度が表現の自由に対する制限の手続要件を「法律」によって規定していないのは、右の自由に対する不当な侵害であると主張するが、公共の福祉による表現の自由の制限の手続は、いかなる場合においても法律で規定されなければならないわけではなく、制限の種類、内容、程度、方法に応じて、法律による委任の下で、基本的な事項以外のものを下位の立法形式に委ねることを禁止するものではないと解される。また、このような委任立法方式そのものは、法治主義の原則に反するものでもない。

前述のとおり、学校教育法二一条一項(四〇条、五一条等によって準用される場合を含む。)は、「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない。」と規定しているところ、これは文部大臣が教科書検定を行うことを前提として教科書の使用義務を定めるものであって、文部大臣の教科書検定権限について法律的根拠となるものと解することができ、教科書の発行に関する臨時措置法二条一項の規定も同様に解釈することができる。また、学校教育法八八条の規定による委任に基づき、文部大臣の検定手続を規定する検定規則が文部省令として制定され、更に右検定規則(三条)の再委任により教科書検定基準が文部省告示として定められているのであるが、右の文部省令を法律の委任を欠くものとはいえないし、右の文部省告示も再委任の形となるのではあるが、法律の根拠を欠くとまではいえない。これらの委任立法の当否は、当然に学校教育法と教科書の発行に関する臨時措置法の立法の際の国会審議において立法権の審査の対象となっている上、前述した普通教育の特性と特有の必要性に基づく教科書検定制度においては、多方面に亘り学問的専門的知識を取り扱わざるを得ず、かつ、右の普通教育の特性等を考慮して教育的配慮を尽す必要があるという性質を有すると考えられるのであるから、右のような委任立法によるとすることにも、合理的な理由と必要性があるということができるのであって、このような委任立法方式による教科書検定制度が「法律による行政」の原則に反するとはいえず、法治主義の原則に反するということもできない。したがって、原告が主張するように公共の福祉による制限の手続を法律によって規定していないということはできない。

3 国際規約(B規約)(昭和五四年条約第七号)一九条違反について

(一) 国際規約(B規約)は、その一九条二項で「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。」と規定して広く表現の自由を保障している。しかし、国際規約(B規約)一九条三項には、「二項の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。a 他の者の権利又は信用の尊重。b 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」という規定もあるのであり、表現の自由の限界とその規制の方法等についても定めていることが明らかである。

(二) ところで、憲法二一条の表現の自由といえども無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による合理的で必要やむを得ない限度の制限を受けるものであることは既に述べたとおりであり、表現の自由保障の限界を規定した前記国際規約(B規約)一九条三項の規定も、公共の福祉による合理的で必要やむを得ない限度の制限を否定する趣旨ではないことは、同条項の文言から明らかである(前掲最高裁判所平成九年八月二九日判決参照)。そして、教科書検定制度が表現の自由を保障した憲法二一条に違反するものでないことは既に述べたとおりであるから、これが公共の福祉による合理的で必要やむを得ない限度の制限を許容する国際規約(B規約)一九条の規定に違反するとは解されない。すなわち、前述のとおり、高等学校以下の普通教育においては、児童生徒の側に授業の内容を批判する能力がないか又は不十分であることを前提とせざるを得ず、教科書は、心身ともに発達途上にある児童生徒に対する主要な教材となるべきものであり、また、教育の機会均等を図る上からも全国的に一定水準を確保すべき要請があることなどの普通教育の特性に照らして、教科書についても、記述内容の正確性、立場の公正・中立の確保、児童・生徒の心身の発達段階に応じた適切な教育的配慮の必要等、教育上の観点からの一定の制約が必要であって、教科書検定制度とその運用は、これらの実現のために必要であるとして設けられているものであるから、この制度とその運用は、前記国際規約(B規約)一九条三項のa、bが規定する表現の自由に対して課することができる制限事項に該当するものと解するのが相当である。したがって、教科書検定制度が国際規約(B規約)一九条に違反するものでないことは明らかである。

4 児童の権利に関する条約(平成六年条約第二号)違反について

本件検定意見の通知がなされたのは、前記のとおり平成四年一〇月であるところ、児童の権利に関する条約が批准されてその効力が発効したのは平成六年五月二二日(平成六年外務省告示第二六二号による。)であるから、本件検定意見が通知された当時、右条約は発効していなかったことが明らかであり、したがって、原告の本件検定制度が右条約に違反する旨の主張は、その前提を欠き失当である。

四  教科書検定制度は検閲又は出版の事前抑制(憲法二一条二項)に当たるか。

1 検閲について

(一) 憲法二一条は、一項でいわゆる表現の自由を広く保障するほか、二項で「検閲は、これをしてはならない。」と規定し、検閲がその性質上表現の自由に対する最も著しい侵害となることから、各種の事前抑制の中で特に検閲を絶対的に禁止する趣旨であると解される。そして、ここにいう「検閲」とは、思想内容等に関する表現行為に先立ち、行政権が、その内容を網羅的一般的に事前に審査し、不適当と認める場合はその発表を禁止することをその特質とするものである。

(二) そこで、本件教科書検定制度が右「検閲」に当たるかどうかを検討するに、確かに教科書検定は、行政権が主体となって、思想内容等の表現物である検定申請図書の原稿を対象とし、網羅的一般的にその内容を審査した上、不合格とされる図書については教科書としての発行を許さない制度であるから、教科書出版分野においては、一見前記検閲の要件に該当するかに見える。

しかしながら、教科書検定によって不合格となった図書原稿であっても、これを一般の図書として出版することは自由であって、その発表そのものが禁止されるものではないから、教科書検定制度が出版等の表現行為を禁止するものということはできない。また、検定規則上、検定申請図書は、未発表の図書のみに限られず、既に出版されて市場にある図書であってもこれを申請することができるのであるから、教科書検定制度が、思想内容等の表現行為に対する網羅的な事前審査といい切ることもできない。

そうとすると、教科書検定制度は、思想内容その他の表現の「思想の自由市場」への登場そのものを禁止するものではなく、このことを事前審査により禁止するという「検閲」の前記の特質を有するとはいえない。したがって、この点の要件を欠き、憲法二一条二項にいう「検閲」には当たらないということができる。

(三) なお、原告の主張中には、申請図書原稿は、教科書として出版されることを前提に執筆されたもので、一般図書として出版されることは執筆者らの意図したところではないから一般的発表禁止の場合と同様であるという趣旨が見られるが、教科書は、前述のとおり、学校教育に用いられる特殊な図書であって、心身ともに未発達な児童生徒が使用するものであり、前述のとおり、記述内容の正確性、記述の立場の公正・中立の要求があり、一定水準の確保の必要もあり、児童生徒に対する適切な教育的配慮が求められるものであって、一般の図書とは自ずからその性質を異にする。したがって、教科書としての適格性を欠く図書が、言論出版の自由の保障があることを理由に、執筆者の意図どおりに教科書として出版することを要求できるものではないのである。

2 事前抑制の禁止について

(一) 表現行為に対する事前抑制は、表現物が思想の自由市場に出る前にこれを抑制して国民に到達する途を閉ざし又は到達を遅らせて、表現物の意義を失わせ、又は公の批判の機会を減少させるものであって、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法二一条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ、これを許容し得るものと解される(最高裁判所昭和六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)。

(二) そこで、これを教科書検定制度についてみるに、教科書検定制度は、教科書として出版するためには常に事前に検定を経なければならないとする点で、教科書という表現形式をとる表現行為に対する事前抑制となり得ることは否定できない。

しかしながら、既に説示したとおり、教科書検定の対象となる申請図書は、必ずしも市場に出る前の図書原稿に限定されていない点で、完全な「事前」の抑制とはいえないし、検定不合格とされた図書でも一般図書として思想の自由市場に登場することには何らの制限もないのであるから、完全な「抑制」ということもできない。したがって、一般的な事前抑制の理論から教科書検定制度の持つ事前抑制的な側面を論ずることはできないと考えられる。すなわち、この制度は、教科書としての出版の許否のみを審査する学校教育の現場たる「教室への入り口」において行われる事前抑制に過ぎないのであり、そして、その入り口においては、前述したとおり、教科書なるが故の各種要請や必要又は児童生徒に対する教育的配慮が本来的に求められるべきものであって、このような観点に立って考え得る規制も、事後的規制であることはできず、事前の抑制的措置によるほかはないという性質のものである。すなわち、全国的な範囲で普通教育の主たる教材として使用に供された後に、教科書が不適格であるとしてその使用を中止しなければならない場合を想定してみれば、教育の現場に看過し難い混乱が生じ、児童生徒に対しても回復し難い影響が生じ得ることは容易に推測できるところであるから、事前の検定制度にその規制を委ねることにも、普通教育における固有の必要性と合理性があるといわなければならない。

したがって、教育現場たる「教室への入り口」において教科書という特殊な出版形式のみに対して行われる教科書検定制度を、憲法二一条の趣旨から禁止される一般的な言論出版に対する事前抑制に当たると解することはできず、また、教科書検定制度が教科書という特殊な出版形式に対する事前抑制としての機能を有するとしても、前述の普通教育上の固有の必要性と合理性があることを考えれば、合理的でやむを得ない限度の規制であって、憲法二一条の趣旨が命ずる一般的な事前抑制の禁止の原則に抵触するものではない。

(三) 原告は、教科書検定制度が前記事前の抑制に該当するとして、抽象的で多義的な検定基準を、文部大臣からの独立性が保障されていない検定審議会の主観的判断又は文部大臣の指揮命令を受ける教科書調査官の判断において運用することを許している教科書検定制度は、判例のいう「厳格かつ明確な要件」のもとにおける規制とはいい難いと主張するが、前述のとおり、教科書検定制度自体は一般的な事前抑制に該当しないというべきである上、前述の検定基準も、概括的、理念的、抽象的であるとはいえるが、多義的であるとはいえない。また、専門的知識を有する教科書執筆者が検定基準の内容を全体として理解してもなお具体的記述への当てはめができないほどに不明確であるともいえないと考えられる。更に、後記第二において認定するとおり、検定審議会又は教科書調査官が主観的に運用しているとはいえないから、原告の右主張は、前提を欠いて失当である。

五  学問の自由(憲法二三条)を侵害するか。

1(一) 憲法二三条が保障する学問の自由は、大学等研究機関における研究者のみならず、その他の下級教育機関における教育者や一般の私人においても、これを享受することができるものというべきであるが、その内容は、単に学問の研究の自由ばかりでなく、学問研究者がその研究成果を発表する自由をも含むものであることには異論はなく、更に、そこから出てくる教授の自由ないし教育の自由が、普通教育の場における教師に対しても、完全な自由ではないものの、一定の意味合いにおいて認められることは、前出の最高裁判所昭和五一年五月二一日の判決が示すところである。

(二) ところで教科書検定は、単に誤記、誤植その他客観的に明らかな誤りなどの是正に止まらず、教科書内容の記述にも及び、ひいては教育内容に対する介入となるものであるが、これが普通教育の場における右のような教師の教育の自由(教授の自由)や教科書執筆者の一定の教育関与権能を侵害するものではないことは、前述したとおりである。しかしながら、教科書検定制度が、前述のような教育に対する介入権の実施を意味するとすれば、なお、「教育の自由」の観点とは別に、右に述べたような学問の自由に対する抵触の可能性をも検討することが必要となる。

2 ところで、教科書は、普通教育における主要な教材として学校教育法上その使用が義務付けられているものであって、教育の本質から当然に、内容の正確性が求められなければならないと考えられるから、その内容には、当然学問研究の成果が十分に反映されていなければならないと考えられる。しかしながら、このことは教科書が学問研究の発表の場の一つとなり得るということを意味するものではない。学問研究の成果の発表の場という観点でみれば、当然それぞれの学問ごとに学界における場その他の場が念頭に置かれている筈であって、前述したような普通教育の特性に鑑みると、普通教育における児童生徒用の教科書がこれにふさわしいとは到底いえないのである。

したがって、教科書検定制度が教科書執筆者の学問の自由を侵害ないし制限するという主張が、教科書を学問研究の発表の場の一つと位置付けて行われているのであれば、もとより失当というべきであり、教科書については、学問研究の発表の自由を主張し、又はその侵害を論ずることは必ずしもできない性質のものであるというべきである。

3 ところで、教科書に学問研究の成果を十分に反映するためには、検定主体たる文部大臣においても、学説状況の適切な把握と検定基準に対する適切な当てはめ判断による検定制度の運用が必要となるが、原告は、この点について、一見明白に学問的な根拠を欠く記述を排除するという限度を超えて、学説の当否や優劣についての文部省の見解を強制する本件検定制度およびその運用は、学問の自由を侵害すると主張するので検討するに、前述のとおり、教育内容に対する国の介入権能は、できるだけ抑制的であるべきであるという憲法上の要請があり、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような教育を強制することは憲法二六条、一三条に違反するということができるのであるから、教科書検定においても、右のできるだけ抑制的であるべきであるという憲法上の要請を実行し、学説状況の公正で正しい把握に立って検定基準への当てはめ判断を適切に行う必要があるというべきであり、文部大臣が学説の当否や優劣を独自に判断してその判断に立って検定制度を運用することは、右の憲法上の要請に違反することとなって、憲法上の問題が生ずるということができる。しかし、これら国の運用規範に対する違反は、原則として、いずれも個別の検定処分についての裁量権の濫用、又は適用違憲等の観点で問題になるに過ぎず、国に右のような憲法上の運用規範があるからといって、教科書検定制度自体が憲法二三条に違反するというものではない。

六  適正手続の保障(憲法三一条)について

1(一) 憲法三一条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と規定するが、その内容と条文の位置からして、右規定が、個人の生命、身体の自由、財産を奪うような刑事手続又は刑罰類似の制裁を科する手続を対象としていることは明らかであるということができる(最高裁判所昭和四一年一二月二七日大法廷決定・民集二〇巻一〇号二二七九頁参照)。したがって、教科書検定手続は、右のような刑罰又は刑罰類似の制裁を科する手続には当たらないから、これに憲法三一条の直接的な適用はないといわねばならない。

(二) しかし、憲法三一条の適正手続の保障の規定が、専ら刑事手続又は刑罰類似の制裁を科する手続について適用されるべきものであるとしても、刑事的手続又は刑罰類似の制裁を科する手続ではないとの理由のみで、行政手続を含めたその余の手続には、同条の保障が及ばないと解することもできない。行政手続にも財産的不利益等を課する処分の例は少なくないのである。しかし、行政処分の手続に右適正手続保障規定の類推適用があるとした場合には、一般に行政手続は、行政目的に応じて多種多様であるから、具体的に適正な手続がいかなるものであるべきかは、一義的には決定されず、当該行政処分により制限を受ける権利利益の内容、性質、制限の程度、行政処分により達成しようとする公益の内容、程度、緊急性等を総合較量して個別に決するほかはないこととなる(最高裁判所平成四年七月一日大法廷判決・民集四六巻五号四三七頁)。

ところで、教科書検定手続は、憲法三一条の規定が予定する個人の生命、身体、財産に対する侵害ないし制約に関する手続ではないことは、前述のとおりであるが、憲法上厚く保障されているといえる言論出版等の表現の自由、学問の自由、教育に関する自由等の精神的自由権に対する制約の手続であるから、憲法三一条の法意に照らすと、教科書検定制度に対しても、個人の生命、身体、財産に対する侵害手続の場合と類似する適正手続に関する憲法上の要請があるものと解するのが相当である。

このようにして、教科書検定制度についても、憲法三一条の法意による適正手続の要請に対する違反の有無を判断することとする。

2 原告は、現行教科書検定制度の手続は、(1) 制度の実体・手続を法律又はその具体的委任に基づく命令で規定していない、(2) 検定機関の公正、中立性が保障されていない、(3) 検定基準が恣意的な運用を許さない程度に具体的かつ明確に定められてはいない、(4) 教科書の執筆者及び発行者に対し、告知聴聞の機会が十分に与えられていない、(5) 審査手続の主要部分の公開がない、という点で憲法の適正手続条項に抵触すると主張するので、順次検討する。

(一) 検定手続等に対する法律による規制

教科書検定制度がいわゆる法治主義の原則に反していないことは、前述したとおりである。すなわち、学校教育法二一条一項(他の条項で準用する場合を含む。)と教科書の発行に関する臨時措置法二条一項の規定は、文部大臣の教科書検定権限を規定しているものと解することができ、また、学校教育法八八条の規定による委任に基づき、教科書検定手続を規定する検定規則が文部省令として制定され、右検定規則三条に基づき教科書検定制度の実体部分となる検定基準が文部省告示として公示されており、また、検定基準の実質的な内容となる学習指導要領も、学校教育法四三条、一〇六条に基づき制定された同法施行規則五七条の二を根拠に公示された文部省告示であるが、右の検定規則(文部省令)と学習指導要領(文部省告示)を法律の委任を欠くものとはいえないし、右の検定基準(文部省告示)は再委任の形となるのであるが、法律の根拠を欠くとはいえない。これらの委任立法の方法によって検定制度の手続が定めることの必要性と合理性は、教科書検定制度においては、多方面に亘り多種の教科分野を取り扱い、学問的専門的知識を対象とするものも少なくなく、前述したような普通教育の特性等を考慮し教育的配慮を尽さなければならないという必要性と普通教育の特有の性質に求められるのであって、完全無欠の立法形式とはいえないにしても、このような一部委任立法方式による教科書検定制度が「法律」によらないものであるということはできず、その実体と手続が、この点で憲法の適正手続条項の趣旨に反しているということはできない。

(二) 検定機関の公正・中立の保障

原告がここで問題にするのは、検定審議会と教科書調査官であると解されるが、前記認定のとおり、文部省に設置されている検定審議会は、文部大臣の諮問機関であり、文部大臣の諮問に応じて検定申請の教科書を調査するなどの所掌事務を行う機関であるから(文部省組織令七〇条)、行政組織上は、文部省の内部機関であって純粋の第三者機関ではないのであるが、学校教育法二一条三項が教科書検定制度中に検定審議会を置く趣旨の規定を設けたのは、第三者的な専門家の意見を聞くことにより、文部大臣の行う検定処分の公正・中立、正確性等を確保しようとしたものであるということができ、それは、前述した国の教育内容に対する介入は、必要かつ相当と認められる範囲に限られ、できるだけ抑制的であるべきであるという憲法上の要請にも即応するものであるということができる。検定規則によれば、文部大臣が最終的な合否の決定をする際には、明白な誤記、誤植等による場合を除いて、検定審議会の「答申に基づいて」これを行うこととなっているから(検定規則七条、一〇条)、この場合の検定審議会の答申には強い拘束力があると解される。

(1) ところで、まず、検定審議会の委員の構成を見ると、教科用図書検定調査審議会令二条一項は、教育職員、学識経験のある者及び関係行政機関の職員のうちから文部大臣が任命するとしているが、入江証人と弁論の全趣旨によれば、教科書検定調査の衝に当たる委員の役割の重要性に鑑み、各方面からの推薦を受けて、それらの者の中から各教科の専門学識者、教育について見識と経験を有する教職員が、各部会に適切に配属されるよう配慮しつつ任命されており、その際には、検定の公正を確保するため、教科書の編著作者及び発行者並びにこれらと関係のある者は除外される取り扱いとなっていることが認められる。次に、右審議会令二条二項によれば、検定申請図書の原稿の調査事務のために検定審議会に置かれる調査員及び専門調査員は、学識経験のある者のうちから、検定審議会の意見を聞いて、文部大臣が任命するのであるが、弁論の全趣旨によれば、文部大臣は、広く各都道府県教育委員会及び大学等の長から推薦を受けて、大学教授等の専門学識者又は実際上の経験豊富で学識の優れた学校の教員等の中から調査員及び専門調査員の任命を行うことにしており、その際、公正確保の見地から委員の場合と同様、教科書の編著作者及び発行者並びにこれらと関係のある者を除外する取り扱いとなっていることが認められる。

前述したとおり、検定審議会は現行制度上は文部省の内部機関であるから、その委員及び調査員等の任命権が長たる文部大臣に帰属することは行政組織の観点からみれば当然であって、これをもって中立・公正を疑う理由とすることはできない。また、その選任要件等の手続に関する前記審議会令の前記規定は、検定審議会の趣旨、目的に照らして最も適切な人材を確保しようとするものであり、そこに中立・公正を疑うべき事由を見出すことはできない。更に、右の選任手続の運用に関する手続も、中立・公正を確保しようとする趣旨に出たものであると考えられ、この点でも中立・公正を欠いた運用であるということはできない。

なお、原告の主張の趣旨は、実際の運用は文部大臣が公正な選任を行っていないことをいうものとも解されるが、その事実を認めるに足りる証拠はない上、右のような運用上の問題は、直ちに検定審議会の制度上の不公正・偏頗を意味するものではない。

(2) なお、教科書調査官は、前述のとおり、文部大臣の補助機関であり、上司の命を受けて検定申請のあった教科用図書の調査に当たり(文部省設置法施行規則八条の三)、検定手続の運用では、文部大臣の検定意見その他の検定処分の形成手続に関与し、検定処分の通知等の事務を行う者であるから、もともと第三者性を有していないことは明らかであり、検定手続の公正・中立の保障は、本来別の機関の関与等によって求められるべきものである。

(三) 明確な審査基準とその公正な運用

原告は、検定基準は恣意的な運用を許さない程度の具体性と明確性を有していなければならないと主張するが、検定基準は、前述のとおり、教科書検定制度における実体的な規定としての性格を有し、憲法解釈上国に許容される必要かつ相当な範囲での教育内容への介入権能に関して、その実体的な限界を画すべきものと考えられる。しかし、一方ではできるだけ抑制的であるべきであるとする憲法上の要請があるのであるから、その基準内容の設定には慎重な態度が憲法上必要であるというべきところ、前記認定の検定基準(実質的な内容となっている学習指導要領の内容を含む。以下この(三)において同じ。)を検討すると、いずれもその基準としての在り方は、概ね概括的、理念的、抽象的な性格を有すると認められるのであって、このような検定基準の在り方は、右の憲法解釈上国に許容される教育内容への介入権能はできるだけ抑制的であるべきであるとする憲法上の要請に反していると考えることはできない。教科書検定制度が有する教育専門的、あるいは教育技術的な性質を考えると、検定基準が右のような概括的、抽象的性質を有することは、ある面で合理的かつ有効であるということもできると考えられる。すなわち、検定基準が右のような概ね概括的、抽象的な性質を有してこそ、教科書執筆者の創意工夫を生かし、多様な教科書を生み出す余地を広げることにもなり、ひいては子どもの憲法上の学習権に応えることにもつながるとも考えられる。逆に、具体的で一義的な基準を設定することは、文部大臣の裁量権に対する羈束の在り方は明確となるが、反面で、教科書の画一化を促進することにもなりかねず、教育政策上重大な問題を生じさせる恐れがあるとも考えられる。したがって、検定基準をある程度概括的、抽象的に設定することは、その運用の仕方によっては、ある程度の不便、不都合などがあり得るとしても、より大きな利益を失うことはできないのであり、右の障害等はある程度やむを得ないものとして、個別に是正、克服を図るのが相当であると考えられる。

原告の主張は、右のような検定基準の在り方が検定制度の恣意的な運用につながることを指摘するものと解されるが、検定基準が概括的、理念的、抽象的な性格を有するからといって、当然にその運用が恣意的に流れるというものではなく(後記第三のとおり、検定基準の運用又はそれへの文部大臣の当てはめ判定にも前記憲法上の要請の適用があると解される。)、その運用の仕方の問題は、前述のような長所をも有する検定基準についての看過できない欠陥となるではない。

また、原告は、検定基準は明確性に欠けるとも主張するが、概括的、理念的、抽象的な基準であるということは、直ちに不明確であることにはつながらず、前述したとおり、教科書執筆者その他の関係者においてこれを全体として理解すれば、教科書記述を検定基準に当てはめることが十分に可能な程度には明確性を有していると解されるし、文部大臣その他の関係者においても同様であるということができる。

(四) 告知・聴聞手続の保障

(1) 教科書検定手続をいわゆる告知・聴聞手続の保障の観点で見てみると、① まず、文部大臣が申請図書について客観的に明白な誤記、誤植又は脱字が文部大臣が別に定める基準を超えて存在すると認めたときは、その旨を申請者に通知し(検定規則六条一項)、この通知を受けた者は一五日以内に必要な修正を加えて申請図書の再提出を行うことができ(同条二項)、再提出がないときは、文部大臣は検定審査不合格の決定をし(同条三項)、その旨を申請者に通知する(同条四項)。② 文部大臣が検定審査不合格の決定をしようとするときは、事前に、申請者に対し「検定審査不合格となるべき理由書」により、検定審査不合格となるべき理由の通知を行い、その際口頭で補足説明を行う(同規則八条、実施細則第二、3、(1))。この事前通知を受けた者は、二〇日以内に反論書を文部大臣に提出することができ(検定規則八条二項)、その結果、なお右の不合格の決定されたときは、その旨が通知され(同規則七条)、その際には「反論認否書」が交付される(実施細則第二、3、(3))。③ 申請図書につき、必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当であると検定審議会が認める場合には、文部大臣は、決定を留保して検定意見を申請者に通知するものとされる(検定規則七条ただし書)。右の検定意見の通知は、口頭で行われるが、その際に「指摘事項一覧表」が交付される(実施細則第二、2)。この検定意見の通知を受けた者は、一五日以内に「検定意見に対する意見書」を文部大臣に提出することができ(検定規則九条一項)、申し立てられた意見を相当と認めるときは、文部大臣はその検定意見を取り消すものとされる(同条二項)。検定意見の通知を受けた者は、四〇日以内に検定意見に従って修正した内容を「修正表提出届」により文部大臣に提出するものとされ(同規則一〇条一項、実施細則第二、5)、なお検定審査不合格の決定がされたときは、文部大臣からその旨が通知される(同規則一〇条二項)。④ 以上の手続において、検定審査不合格の決定の通知を受けた者は、その図書に必要な修正を加えた上、七五日以内に再申請をすることができる(同規則一一条、実施細則第二、6)。

(2) このような教科書検定制度における告知・聴聞に関する手続を概観すると、不利益な検定処分については、申請者、教科書執筆者らに対する通知の制度があり、その理由も、一部の場合は口頭であるが、通知されることが保障されており、不利益処分については、事前又は事後に反論書、意見書の提出等の途も開かれているということができるから、いわゆる告知・聴聞の手続は一応具備しているものと考えることができる。

(3) ところで、原告は、検定意見の通知は、その趣旨と理由が書面によって明示されないため、一五日の意見の申立期間が経過した後の事後相談の場でようやく検定意見の趣旨、理由が判明することがあること、また、反論書や意見申立てに対する文部大臣の審査に期限がないため、出版予定時期に迫られている申請者側は、対等の関係で異議申立てを行うことが事実上できないことを挙げて、告知・聴聞の制度の実質的保障が欠けている旨主張する。

確かに、検定審査不合格の決定の通知は、その理由を「検定審査不合格となるべき理由書」によって通知されることとなっているけれども、検定意見の通知の場合は、「指摘事項一覧表」の交付とともにその内容と理由は口頭で通知され、運用上これは教科書調査官が行う扱いとなっていることが認められる。ところで、右「指摘事項一覧表」は、実施細則の書式によれば、指摘箇所の特定、指摘事項の記載、該当する検定基準の項目の指定を記載するものであるが、指摘事項の欄は狭く、検定意見の内容と理由を詳細に記載する扱いにはなっていないものと認められる。したがって、検定意見の内容と理由は依然として口頭告知の方法によって行うことを予定しているものと認められる。入江調査官と弁論の全趣旨によれば、実際の検定意見は多種多様であり、多数の申請図書につき多数の検定意見が通知され、中には学問的専門的分野の意見もあって、全ての検定意見を書面化する運用は困難であるとの事情がある(本件申請図書に対する指摘箇所は七〇箇所であるが、実際の検定意見の数はその数倍に上るものと推測される。)ことが認められるから、これらが検定意見の口頭通知の方式を採用せざるを得ない根拠の一つとなっているものと推認されるが、右のような運用の実状を考えるとやむを得ないものというべきであり、これによって告知・聴聞の手続が潜脱されるとはいえない。すなわち、前記認定によれば、口頭通知を現実に行う教科書調査官は、実際に検定意見の形成に携わる事務担当者であって、検定意見の口頭通知を最も良くなし得る者と考えられる上、入江証人と弁論の全趣旨によれば、初等中等教育局では、検定意見の口頭通知の不備を補うために、事前の届け出により検定意見の通知の場に録音機の持込みを承認する扱いをしていることが認められる。したがって、録音機の持ち込みを拒否したり制限するようなことがあれば別であるが、これら制度の不備を補おうとする取り扱いの全体を見れば、検定意見の口頭通知の制度が欠陥を有するとまではいえず、告知・聴聞の制度の趣旨に反するということはできない。原告の主張は、検定意見の理由が不分明であった事例があることを指摘するものではあるが、そのような事例の存在は、口頭告知制度の妥当性と右の運用方法による保障性と相当性までも否定することにはならない。

また、前述の反論書の提出があった場合における文部大臣の審査期間についての期限の定めがない点は、原告の指摘するとおりであるが、この場合、右反論書を添えて検定審議会に対して合否の諮問がされ、その答申に基づいて文部大臣の合否の決定がされるから、右の審査期間を限定し難い事情があるものと推測される。しかしながら、このことの故に反論書を提出することができるという手続が意義を失うものとはいえない。次いで、検定意見に対する意見申立書に対しては、文部大臣は修正表の提出時までに、これに対する認否の通知をするものとされているから(実施細則第二、4、(2))、この場合の文部大臣の審査期間は最大四〇日と限定されていることになる(実施細則第二、5、(1))。これらの事情によれば、この点の原告の主張も理由があるとはいえないが、右主張の趣旨は、弁論の全趣旨と俵証人の証言に鑑みれば、出版の期限に迫られている申請者にとって、現実には、検定意見に対する意見申立書を提出しにくい事情があることをいうものと考えられる。しかしながら、そのような実状があるとしても、それが意図的なものでない限り、これをもって、必ずしも教科書検定制度における右のような告知・聴聞手続の保障性が意義を失うことになるものではなく、また、直ちに不備であるということにつながるものではない。

(五) 検定手続の公開

教科書検定において、その手続の全部又は一部を公開すべきものとする法令はない。また、実際にも検定審議会における審議過程や内容、教科書調査官及び調査員の調査意見書及び評定書等の調査資料が公開されていないことは、当事者間に争いがない。

一般に、行政手続の公開は、行政の公正さを担保するのみならず、当該手続の相手方、さらには一般国民の行政に対する納得や信頼を確保するほか、一般国民による行政の監視作用に資する面があり、民主的な社会においてその意義は小さくないといえるが、他方、行政の能率的運営や私人の秘密の保護等の面からは、一定の制約の必要性があるのであって、結局、いかなる行政活動につきどの程度行政手続を公開すべきかは、立法政策の問題であるといわねばならない。

憲法規範の議論としては、国の教科書検定制度と文部大臣の運用が、これを許容する憲法解釈において、できるだけ抑制的であるべきであるという要請を受けているのであるから、その観点からみて、主要部分の公開制度も立法論として考慮する余地がないではないというに止まり、適正手続の規範の中に当然に教科書検定制度が公開されなければならないとする要請が含まれているとはいえない。したがって、適正手続論としては、教科書検定制度において、手続公開や検定関係文書の公表に関する法令が存しない以上、検定審議会における審議過程や内容、教科書調査官及び調査員の調査意見書や評定書等の調査資料が公開されていないことをもって、憲法三一条の法意による手続保障に欠けるとすることはできない。

3 以上のとおりであって、教科書検定制度が憲法の適正手続に関する規範に違反するということはできない。

第二  本件検定処分における運用違憲・運用違法の主張について

一  本件検定処分の運用違憲について

1 原告は、教科書検定制度がそれ自体において違憲ではないとしても、文部大臣の教科書検定制度の運用には、憲法三一条等の法意に照らして、違憲というべきものがあり、したがって、右違憲というべき運用によって行われた検定処分又は検定意見も違憲又は違法であると主張するので判断する。

2 確かに教科書検定制度は、文部大臣が申請図書につき教科書としての適格性を判定するものであって、単に文字・語句の正誤等の審査に止まらず、教科書記述の内容に関する審査にも及び、教育内容に対する介入となるべき性質を有するものであるから、教科書検定制度の運用においても、前述した憲法解釈上国に許容される教育内容に対する介入権の行使はできるだけ抑制的であるべきであるという憲法上の要請を受けているものというべきであり、そこには一種の憲法的規範が成立しているとも解することができる。したがって、教科書検定制度がそれ自体が合憲とされる場合であっても、その実際の制度運用において、教育に対する「不当な支配」を回避しようとする自制に欠け、恣意的な運用に亘り、又は教育内容に対する介入の在り方、程度、方法においてできるだけ抑制的であるべきであるとした憲法上の要請ないし憲法的規範に反するような実施があれば、やはり違憲の状態が現出するものと考えざるを得ない。したがって、右のような運用がある場合において、右の憲法的規範に対する違反が明らかであり、個別の検定処分の違法性を判断するまでもなく違憲又は違法であることが明らかであると認められるときには、そのような手続運用の在り方自体に違憲性を求めて、それによる検定処分を違憲無効又は違法と判断する余地がないとは言い切れない。しかしながら、手続の運用がそのような程度にまでには至らず、単に前記憲法上の要請ないし憲法的規範に反する疑いがあるというにとどまる場合には、仮にその疑いが強い場合であっても、そのような運用によったという検定処分を改めて個別に憲法その他の法規と検定基準による実体規範に照らして審査判断をしてみたところ違憲無効(適用違憲)ではないと判断される場合もあり得ると考えられるから、右のような運用上の違憲の疑いは、たとえそれが強い疑いであっても、そのことのみを理由に直ちにその検定処分を違憲無効と断ずることはできない性質を有している。したがって、最終的には、個別に実体規範に照らして違憲性を審査判断する必要が残るのであり、その結果、ある場合には違憲無効(適用違憲)と判断される場合があり得るとしても、それは個別具体的な事案に対する判断であるに過ぎない。このように、結局は個別具体的な判断で違憲無効を決するのであれば、前述の運用上違憲の疑いがあるというような場合でも、原告が主張するような運用違憲の考え方を用いる必要はないことになる。

したがって、原告の主張する運用違憲の考え方は、前述のとおり、国に向けられた憲法的規範に対する違反状態が明らかであるという検定制度の運用があると認められ、個別検定処分の違憲性を判断するまでもなく違憲無効であることが明らかであると認められるときにのみ適用されるものに過ぎないと考えられる。

3 このような観点で、原告の運用違憲の主張を検討するに、以下に述べるとおり、文部大臣による教科書検定制度の運用が、国に向けられる憲法上の要請ないし憲法的規範に明らかに違反している状態にあるとは到底いえず、また、個別の検定意見の違憲性を判断するまでもなく当然に違憲であるともいえないから、いずれも失当というべきである。以下、その理由を原告の主張に即して述べることとする。

(一) 検定審議会制度及びその運用について

(1) まず原告は、教科書検定制度においては、文部大臣は検定審議会の答申に基づいて検定意見を決定すべきものであり、検定審議会が事実上検定意見の決定権限を有するとした上で、政党政治の下では国政上の意思決定は種々の政治的要因によって左右され、そのような政治的影響が本来人間の内面的文化的な営みである教育に入り込む危険があり、したがって教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制されることが求められているのであるから、手続的な適正・公正は特に強く保障される必要があるのであって、このような要請から、検定審議会制度を設けて、検定審議会が、教科書検定における合否を事実上決めるという制度をとっているのであるところ、この検定審議会の制度は、検定手続についての適正手続の保障の中でも最も重要なものであると主張し、したがって、検定審議会は、検定意見を、対象箇所を特定して修正すべき内容とその理由を被告知者に明確に判る程度に具体的に決定しなければならないのであり、かつ、答申に際しては、これらの検定意見を書面化された文章で答申する必要があると主張する。

(2) しかしながら、一般に、法律が行政機関に審議会の制度を設けている趣旨は、その行政機関において的確な事実関係と民意を把握し、又は専門技術的分野における判断を尊重して、公正・中立で適切な行政処分を行わせ、又は適切で有効な行政施策を立てさせようとするものであり、教科書検定に関しても、学校教育法二一条三項の規定が「第一項の検定の申請に係る教科用図書に関し調査審議させるための審議会については、政令で定める。」とし、文部省組織令七〇条が「法律の規定により置かれる審議会等のほか、本省に次の審議会を置」くとして、「教科用図書検定調査審議会」を掲げ、その所掌事務を「文部大臣の諮問に応じて、検定申請の教科用図書を調査し、及び教科用図書に関する重要事項を調査審議し、並びにこれらに関し必要と認める事項を文部大臣に建議すること。」と規定しているのには、教科書検定手続における検定意見その他の検定処分の公正、中立、適正を図ろうとするとともに、教科書検定制度を通じて行われる国の教育に対する介入が前述の憲法上の要請に違反せず、かつ、検定制度の運用が教育に対する「不当な支配」となることのないようにするための目的と配慮があることは、優にこれを認めることができる。

しかし、他方で、検定審議会が文部大臣の諮問に応ずる諮問機関として設置されていることは前記文部省組織令七〇条の規定により明らかであって、部外から委員が任命されるとしても、基本的には文部大臣の行う行政手続における一組織であり、文部省の内部機関と位置付けられるものというべきである。したがって、検定審議会の議決答申は、文部大臣の検定処分の形成手続の一過程に過ぎないのであり、そこに前述の検定制度を通じて行われる国の教育に対する介入が憲法上の要請ないし憲法的規範に違反せず、教育に対する「不当な支配」となることを回避しようとする法規の配慮があるとしても、それらの配慮等は、最終的には検定審議会の議決答申の過程を経て形成される文部大臣の検定意見その他の検定処分に結実することになるのである。したがって、文部大臣の検定意見その他の検定処分に対して違憲違法を主張することができる限りは、原則として、検定審議会の議決答申そのものに対して、独立して、前述の憲法上の要請ないし憲法的規範に違反する、又は教育に対する「不当な支配」となるという理由でその違憲性又は違法性を主張する必要は出てこないものと考えられる。

(3) 原告の主張は、右に見たように、文部大臣は検定審議会の答申に基づいて検定意見を決定すべきものであるから検定審議会が事実上文部大臣に代わり検定意見の内容に対する決定権限を有するとするものであるが、検定審議会を設置した趣旨の中に、国の教育内容に対する一定の介入を許容するという教科書検定制度の持つ特殊な性格を考慮し、教科書検定制度を通じて行われる国の教育に対する介入が前述の憲法上の要請ないし憲法的規範に違反することのないように、又は教育に対する「不当な支配」となることがないようにしようという法規の配慮があることは、前述したとおりであるが、そうであるとしても、検定審議会の制度が、前述したように行政手続内部の一つの意思決定過程であることには変わりがないのであって、文部大臣の合否の決定が検定審議会の答申に拘束されるとしても、検定意見についてまでの拘束力はなく、事実上も検定審議会が文部大臣に代わって検定意見その他の検定処分を決定するという仕組みになっているとはいえない。検定主体はあくまで文部大臣であるのであって、原告のこの点についての主張は、検定審議会が文部大臣の意思決定過程の内部に組込まれているという制度の在り方を看過するものである。

(4) したがって、原告の主張の趣旨は、行政手続内部の一過程に過ぎない検定審議会の議決答申においても、なお憲法上の要請又は憲法的規範に拘束されるべきであり、教育に対する「不当な支配」となることのないように抑制性が働くべきであるという観点から考慮すべきものであると解されるところ、これは検定意見の形成過程における瑕疵を問題にすることとなるものであるが、前述の憲法上の要請又は憲法的規範に対する違反状態が明らかであり、個別の検定処分の違法性を判断するまでもなく違憲又は違法であることが明らかであるという状態があり得ないとは言い切れないので判断するに、このような観点から実際の検定審議会の議決答申等の運用をみても、以下に述べるように、前述の憲法上の要請又は憲法的規範に対する違反状態が明らかであるとは到底認められず、個別の検定処分の違法性を判断するまでもなく違憲又は違法であることが明らかであると認めることはできない。

(二) すなわち、前述したように、検定審議会は文部大臣の諮問機関としての性質を有し、文部省組織令七〇条によれば、その所掌事務は、文部大臣の諮問に応じて、検定申請の教科用図書を調査し、及び教科用図書に関する重要事項を調査審議し、並びにこれらに関し必要と認められる事項を文部大臣に建議することと定められているところ、検定規則によって、その議決答申等の所掌事務の在り方をみると、次のとおりである。

(1) まず、文部大臣が申請図書について客観的に明白な誤記、誤植又は脱字が文部大臣が別に定める基準を超えて存在すると認めた場合において、その旨の通知を受けた申請者が一五日以内に必要な修正を加えて申請図書の再提出を行わなかったときには(検定規則六条一、二項)、文部大臣は、検定審議会の議を経て、検定審査不合格の決定をすることができる(同条三項)。したがって、検定審議会は、右の場合に検定審査不合格の議決をしてその旨文部大臣に答申することとなる。この場合、文部大臣は「検定審議会の議を経て」不合格の決定をすると規定されているから、文部大臣に「議を経て」という手続の履行が要求されていると解されるが、「答申に基づいて」と規定されている場合に比して審議会の議決内容の拘束力は弱いと解することができる。

(2) 次に、文部大臣は、右の明白な誤記等の審査を経た申請図書については、教科書として適切であるかどうかを検定審議会に諮問し、その答申に基づいて、検定の決定又は検定審査不合格の決定を行い、その旨を申請者に通知することとされている(検定規則七条本文)。したがって、文部大臣の諮問に応じてした検定審議の申請図書が教科書として適切であるかどうかについての議決答申の内容は、「その答申に基づいて」と規定されているように、文部大臣の検定決定又は検定審査不合格の決定の内容に影響力を有し、拘束力を有すると解することができる。

(3) ところで、文部大臣が検定審査不合格の決定を行おうとするときは、事前にその理由を申請者に通知するものとされ(同規則八条一項)、理由の通知を受けた者は、二〇日以内に反論書を文部大臣に提出することができ(同条二項)、反論書の提出があったときは、文部大臣は、これを添えて検定審議会に諮問した上「その答申に基づいて」、検定規則七条本文の決定(検定の決定又は検定審査不合格の決定)を行うものとされているから(同条四項本文)、この場合の検定審議会の議決ないし答申にも、文部大臣の右決定に対する拘束力があると解することができる。

(4)  そこで、本件に関係する検定意見についての検定審議会の関与の在り方を見ると、検定規則七条ただし書きは、「ただし、必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当であると検定審議会が認める場合には、決定を留保して検定意見を申請者に通知するものとする。」と規定し、検定規則八条四項ただし書の規定も同旨であるが、この規定の趣旨は、検定審議会が申請図書について「必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当であると」認めた場合には、文部大臣は合否の決定を留保して検定意見を申請者に通知することができるというものであると解されるから、その規定の内容から見ると、検定審議会の議決又は答申の対象は「必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当であると認め」るか否かであり、必ずしも検定意見そのものを検定審議会が議決答申することを予定しているとはいえない。もっとも、検定審議会が「必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当であると認める」という場合には、当然検定審議会において「必要な修正を行」うべき欠陥とその理由をも認識していると考えることができるが、検定審議会が右のように認める場合には、検定機関である文部大臣自らが決定を留保して検定意見を通知するとされているのであり、「検定審議会の答申に基づいて検定意見を通知する」又は「検定審議会の議を経て検定意見を通知する」とは規定されていないから、検定審議会の欠陥とその理由に対する認識は文部大臣に対する答申の内容とする必要がなく、通知される検定意見の形成に関する責任は文部大臣にあるとの考え方で規定が設けられていると解される。したがって、検定審議会から特定の箇所について「必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当であると認める」旨の議決があった場合には、これを受けた文部大臣は、自らの責任でこれに関する検定意見を形成した上、申請者に通知すべきものと解される。

(5) 次に、検定意見の通知を受けた者は、通知のあった日から起算して一五日以内に検定意見に対する意見申立書を文部大臣に提出することができ(検定規則九条一項)、右意見申立書の提出があった場合において、文部大臣が検定審議会の議を経て、申し立てられた意見を相当と認めたときは、当該検定意見を取り消すものとされている(同条二項)。したがって、この場合は、検定審議会は、提出された意見申立書の内容の当否について議決答申することとなるが、文部大臣は、「議を経」る手続の履行が要求されるものの、なお自ら「申し立てられた意見を相当と認め」るか否かを判断する余地があると解される。

(6) 最後に、検定を経た図書について誤った事実の記載等を発見した場合には、発行者は、文部大臣の承認を受け、必要な訂正を行う義務があり(同規則一三条一項)、学習を進める上で支障となる記載等を発見した場合には、発行者は、文部大臣の承認を受け、必要な訂正を行うことができる(同条二項)と規定されているが、文部大臣がこれらの承認を行おうとする場合には、「必要に応じ検定審議会の意見を聞くもの」とされている(同条四項)から、この場合は、文部大臣において検定審議会に意見を聞く必要があるか否かを判断することとなり、意見を聞く必要があるとされた場合でも検定審議会の議決の拘束力は必ずしも強いとはいえないと解される。

(三) 以上のとおり、現行検定制度上、検定審議会の議決ないし答申が文部大臣の検定処分に対して有する拘束力の程度は種々であり、前記(2)、(3)の場合のように申請図書の合否に直接関係する場合には、検定審議会の「答申に基づいて」文部大臣が検定の決定又は検定審査不合格の決定を行うとされており、この場合には、検定審議会の議決ないし答申には一定の拘束力があると解されるが、その余の場合には、そのような強い拘束力を認めることはできないのである。

本件で問題となる前記(4)の検定意見に対する関係について見ると、前述のとおり、現行検定制度上、検定審議会は申請図書について「必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当である」か否かについてのみ議決すべきものと予定されており、右の議決があった場合には、文部大臣は、その趣旨を受けて(実際には右議決に至った理由ないし議事内容は参考にされるものと考えられる。)、自らの責任で検定意見を形成しこれを通知すべきものとされている。この趣旨は、現実の検定意見の数は多数に上り、その内容も学問的専門的に亘り、その理由は多様であって詳細を尽くすべきものもあるという実状があるものと推認されることから、検定意見の内容を全て検定審議会の議決の対象にすることは実際上困難であることによるものと解されるが、その反面、検定意見をその責任で形成する文部大臣においては、前述した検定制度の運用に対する憲法上の要請又は憲法的規範の趣旨に即して、できるだけ抑制的な姿勢が求められるということもできる。入江証人と弁論の全趣旨によれば、実際の検定意見の形成の過程においては、教科書調査官が作成した調査報告書と評定書が小委員会又は第二部会に提出されて審議に供され、そこでは、教科書調査官から通知されるべきものと予定される検定意見の概要が説明され、更に委員から教科書調査官が指摘する箇所以外についても検定意見が相当であるという意見が出されることが少なくなく、その場合には、教科書調査官は右の委員の意見をも参考として文部大臣の検定意見を形成してこれを通知するという実状があることが認められるから、右のような運用である限り、文部大臣の検定意見の形成過程に恣意的でかつ憲法上の要請ないし憲法的規範に違反する運用があるということはできない。

(四)(1) 原告は、この点に関して、検定審議会は、検定意見を対象箇所を特定して修正すべき理由と必要な修正の内容を「訂正」「削除」「追加」のいずれに当たるかを明示し被告知者に明確に判る程度に具体的に議決し、答申に際してはこれらの検定意見を日本語の文章にして答申する必要があると主張するが、右に見たとおり、検定審議会が検定意見の形成に関与するのは、検定規則上「必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当である」か否かを議決し、これを文部大臣に報告あるいは答申することに止まるのであり、それ以上に必要な修正の内容とその理由を被告知者に明確に判る程度に具体的に議決し、その報告又は答申に際してこれらの検定意見を日本語の文章にしてこれを行うというような事務を行うべきものとは規定されていない。すなわち、検定審議会が「必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当であると認めた場合には、」文部大臣が自らの責任で決定を留保して検定意見を通知すべきものであることは前述のとおりである。実際には、前述のとおり、検定審議会においては欠陥の箇所を特定しその欠陥たる所以も認識していると考えられる上、提出された修正表については再度審査することになっているのであるから(検定規則一〇条二項)、検定意見として通知されるべき内容に対しても認識と見解を有しているものと考えられる。したがって、文部大臣が通知すべき検定意見を形成するに際しては、検定審議会の右の認識と見解を十分に参考にすることが、検定審議会を置いた趣旨に沿うものであり、前述した憲法上の要請にも即した運用であると考えられるが、入江証人と弁論の全趣旨によれば、実際においても、検定審議会の委員は独自に申請図書の内容を検討しており、会議においては各教科書調査官から欠陥箇所と欠陥たる理由の説明報告が行われるのみならず、委員からも教科書調査官の報告する欠陥箇所以外にも欠陥の指摘があって、これが検定意見に採用されることも少なくないという実状があることが認められるから、文部大臣の検定意見の形成の際には、検定審議会の審議の内容を十分に参酌し、又はこれを採用するなどの運用は行われているものと認められる。

(2) もっとも、右のような、検定審議会は「必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当である」か否かを決定しこれを文部大臣に報告又は答申することに止まり必要な修正の内容とその理由を議決の対象にしないという現行検定規則の解釈とその運用に対しても、前述の憲法上の要請ないし憲法的規範の適用があると考えられ、かつ教育に対する「不当な支配」とならないような運用上の配慮が必要であるということができるが、次に認定するような実際上の運用の在り方に照らすと、右の憲法上の要請ないし憲法的規範に対する違反があるとは到底いえず、また、教育に対する「不当な支配」とならないような運用上の配慮が欠けているということもできない。

すなわち、先に認定した事実によれば、平成四年四月ないし五月ころ本件申請図書の調査を開始した入江調査官ほか二名の教科書調査官は、同年七月上旬ころ公民科の申請図書についての調査官会議を開催し、調査を担当した調査員からの調査評定結果の回答を参照しながら、各調査官の調査結果を検討し、原告が執筆した「テーマ(6)」と「テーマ(8)」を含む本件申請図書の各分野につき一部検定意見を付するのが相当であるとする結論を出し、それぞれその後に開かれる検定審議会第二部会現代社会小委員会に提出するための評定書と調査意見書を作成し、同年八月二四日に開催された現代社会小委員会においてこれらを提出して説明報告を行ったこと、右小委員会の各委員は、事前に本件申請図書の配付を受けて独自に調査検討を行っていたが、席上配布された判定表及び調査意見書を見ながら各担当教科書調査官から調査官会議の結果の概略等について合計約四〇分の報告を受け、本件申請図書に関して合計約一時間を費やして審議を行い、原告執筆の「テーマ(6)」と「テーマ(8)」については入江調査官の指摘事項に関する報告をそのとおり承認したが、本件申請図書の他の部分については、教科書調査官が提示した事項以外にも検定意見を付すべきとする事項があるとし、また、教科書調査官が提示した事項が検定意見としてふさわしくないとしてこれを除く旨の議決をしたこと、担当教科書調査官は、小委員会の審議結果を手控えに取り、検定審議会第二部会のための前同様の資料を作成し、同年八月二八日に開催された右第二部会においては、調査意見書その他の用意された資料をもとに現代社会小委員会の委員長から小委員会の審議経過と結果の報告があった後、各担当教科書調査官が手控え等に基づいて小委員会審議の報告を行ったところ、本件申請図書に関しては、入江調査官担当部分に三〇か所、青山調査官担当部分に二一か所、小林調査官担当部分に一九か所の合計七〇か所について、必要な修正を行った後に再度審査を行うことが適当であるとの結論が議決され、同日、文部大臣に対し、右と同様の答申がされ、これを受けた文部大臣は、同旨の検定意見を形成して、同年一〇月一日にこれを申請者に通知したことが認められる。

右の事実関係は、概ね前述の検定意見の形成等に関する検定審議会の在り方に即しているものと認められ、右の運用に憲法上の要請ないし憲法的規範に違反するというべき点を見出すことはできず、また、教育に対する「不当な支配」がもたらされる恐れがあるということもできない。なお、原告は、本件申請図書の欠陥個所は七〇箇所であり、記述修正の仕方などを特定した上検定意見を文章化して答申すべきであるというが、現行検定規則上、検定意見の内容についての報告ないし答申が予定されていないことは前述のとおりであって、右の点は失当であるが、右の事実によれば、本件申請図書の欠陥個所は七〇であるけれども、後記認定のとおり「テーマ(6)」「テーマ(8)」についても多数の個別の検定意見が通知されていることを考え併せると、本件申請図書全体では結局七〇の数倍に上る数の検定意見が通知されたと推認することができ、実際には各申請図書における検定意見の数は多数に上る実状にあることはこれを認めざるを得ない。また、後記認定の本件検定意見の内容と性質に照らすと、実際の検定意見の内容は、容易に書面化し難い性質を持つものが少なくなく、口頭通知により運用することもやむを得ないと考えられ、現行検定規則上、最終的な合否の決定に関しては検定審議会の議決答申とその拘束力を認めるものの、合否の決定を留保した検定意見についてはその内容と理由を答申の対象から除外して、検定主体である文部大臣において検定意見を形成させ、これを口頭により通知するという方法を採用したことも、やむを得ないところであると考えられる。したがって、右のような検定規則の解釈とその運用が憲法上の前記要請ないし憲法的規範に反するとまではいうことはできず、また、教育に対する「不当な支配」にならないような配慮に欠ける運用になっているということもできない。

(五)(1) また原告は、文部大臣の検定意見の形成の過程は、検定審議会に対する教科書調査官の説明時間が短く、検定意見の内容を十分に審議せず、このことにより文部大臣の「下僚」たる教科書調査官の恣意的な検定意見告知を許すこととなり、憲法上検定審議会に求められる教科書調査官に対するチェック機能を放棄していると主張するが、右の主張も現行の検定審議会制度に対する異なる解釈に立脚するものというほかはない。すなわち、前述したとおり、教科書検定の制度上、検定権限は文部大臣にあり、検定審議会は、公正、中立、適正な検定処分の形成実施を担保し、ひいては憲法上の前記要請又は憲法的規範に反する運用を制約する趣旨で設置されたということができるものではあるが、基本的には文部大臣の検定処分に関する意思形成の一過程を担う文部省の内部機関に過ぎず、その議決ないし答申の趣旨は最終的に文部大臣の検定処分として結実するものである。また、教科書調査官も同様に一機関であって、文部大臣の「下僚」であるとしても、行政組織の観点からはその検定処分の通知は当然に文部大臣の検定処分の通知と評価すべきものであるから、その通知が恣意的であるとするならば、当然に文部大臣の検定処分に裁量権の逸脱又は濫用があったとして、司法審査等の対象とし得るものなのである。

(2) なお、原告の主張に鑑み、本件申請図書に対する検定審議会の審議の程度について見てみると、入江証人と弁論の全趣旨によれば、同年一〇月一日に行われた検定意見の通知にはその開始から終了まで約二時間余を要しているのに対し、現代社会小委員会における審議時間は約一時間程度であって、検定意見の通知に要した時間に比してかなり短いものであったと認めることができるが、前記認定事実によれば、審議会の委員はいずれも経験豊かな教育専門家であり、事前に申請図書を独自に調査検討した上で会議に臨んでいるものと認められる上、そもそも前述のとおり、検定審議会は欠陥箇所を認識した上で検定意見を通知する必要があるか否かを審議判定して文部大臣に答申すれば足りるという制度であるのであるから、もともと検定意見の具体的な内容、理由の詳細、検定意見の通知の方法などについては当初からその審議の対象にはなっていなかったと推認されるのであり、したがって、右小委員会の約一時間の審議時間中約四〇分が教科書調査官の説明報告に費やされたことも、現行検定制度の在り方を前提に見れば、むしろ自然な時間の配分と考えることができるのであって、この点に関する原告の主張はいずれも採用することはできない。

(3) このようにして、本件申請図書に対する検定審議会の審議の運用が制度の本来の趣旨目的を没却しているとか、審議会の使命を懈怠しているという原告の主張は、当を得ないものというべきである。

4 以上のとおり、検定審議会に関する運用において、前述した憲法上の要請ないし憲法的規範に対する違反状態が明白であるということはできず、また、具体的な検定処分につき個別にその違憲性ないし違法性を判断するまでもなくそれが違憲又は違法であることが明らかであるということもできない。したがって、右に見た検定審議会の運用状態を憲法に違反するとして、右運用から生じた各検定意見を全て違憲とする原告の主張は採用できない。

二  本件検定処分における運用上の違法について

1 原告は、右のような検定手続の運用上の瑕疵が違憲とまではいえないとしても、その運用は検定関係法規が予定する手続を逸脱するものであり、手続上最も重要な審議会制度の趣旨を没却するものであって、その違法性は極めて重大であるとし、この違法性の重大性に鑑みれば、かかる違法な手続によって形成された検定意見の通知は、その内容の当否を問わず違法とされるべきであると主張するので判断するに、一般に、行政機関に審議会等を設置して、行政庁がその答申等を尊重するなどして行政処分を行うべきことを法が定めているのは、結局、公正かつ中立で、実状に即した客観的かつ適切な行政処分の内容を担保する趣旨に出たものであると解されるところ、その審議会等の答申などを経る手続を履践しその答申等を尊重するという行政手続は、最終的には行政処分の内容として結実するものであるから、行政庁に与えられた裁量の基準が明確であり、行政処分の内容をその基準に照らしてその逸脱等を判断することができる場合には、原則として審議会等に関する行政手続上の違法を行政処分自体の違法とは別に主張する必要はないものと解されるが、裁量基準に対する当てはめ判断に専門的技術的な判断を伴うため行政庁にやや高度な裁量の幅が認められる場合であって、特に憲法又は法律の趣旨から審議会等の審議の手続に重要な意味を付与して審議会の答申内容に行政処分も拘束されると法規において定めているような場合においては、例えば審議会の審議答申を経ることなく行政処分がされたとき、又は審議答申がされてもその手続の過程に重大な法規違反があることなどによりこれを要求した法規等の趣旨に反すると認められるような瑕疵があるときは、これを経てなされた行政処分も違法と評価される場合があり得ると解される(最高裁判所昭和五〇年五月二九日第一小法廷判決・民集二九巻五号六六二頁参照)。

2 これを本件についてみると、前記認定のとおり、検定基準自体は一般的な水準を確保しようとした概括的、理念的、抽象的なものであって、それに対する当てはめ判断はやや高度で教育専門的な裁量判断となり、一方では前述のとおり憲法上の要請ないし憲法的規範の対象となっているものであって、検定処分の公正で中立的な、実状に即した客観的、適切な内容を担保する趣旨で検定審議会が設置され、検定規則上、一定の場合にはその答申には検定処分への拘束力があると解されるのであるから、例えば必要とされる検定審議会の審議答申を経ることなく検定処分がされたとき、又は審議答申がされてもその手続の過程に重大な法規違反があることなどによりこれを要求した法規等の趣旨に反すると認められるときは、右の手続上の違法を理由にその検定処分が違法となることがないとは言えないと考えられる。

3 しかしながら、前記認定のとおり、本件申請図書に対する検定処分(検定意見)の手続は、検定審議会の現代社会小委員会と第二部会の審議を経て文部大臣への報告ないし答申が行われており、前記認定のとおり、その審議手続は、検定規則に照らして違法と認めるべき瑕疵はない。したがって、この点に関する原告の主張も理由がない。

第三  文部大臣の裁量権とその範囲(違法性判断の基準)について

一  検定権限の限界

1 以上のとおり、教科書検定制度自体が、憲法上の人権ないし自由権に関する各憲法規定に違反するということはできないが、その違憲ではないという憲法解釈は、前述のとおり、国が教科書検定を通じて教科書ひいては教育の内容に介入することができる権能には、できるだけ抑制的であるべきであるという憲法上の要請ないし憲法的規範があることを承認しなければならず、又は教育基本法一〇条一項の教育に対する「不当な支配」を行ってはならないという制約が課せられていることも前述したとおりである。

したがって、教科書検定制度に関する国の運用ないし実施の方法に対しても、教育内容への介入権の行使はできるだけ抑制的であるべきであるという前記憲法上の要請ないしは憲法的規範による制約があるということになり、「不当な支配」を禁止する教育基本法上の制限もあるというべきである。

2  このことは、現実の運用ないし実施が検定処分を通じて行われるのであるから、検定基準を裁量基準とする検定処分においても、当然に考慮されなければならない制約であると考えられる。したがって、検定処分を行うに際しての裁量基準の解釈又は裁量基準に対する当てはめの判断に対しても、一定の制約となるものと解さざるを得ない。

二  文部大臣の裁量の基準

1 裁量権の行使の際の制約

ところで、文部大臣が教科書検定において行う合否の決定処分は、申請図書に対する教科書という特殊形態における出版を許すか否かの行政処分であるから、検定基準という裁量基準に則って行われる講学上のいわゆる特許行為に含まれると解されるが、前述したように検定処分は、必然的に教育内容に介入するという特質を有しているのであるから、裁量基準たる検定基準の解釈とこれへの当てはめ判断に関する裁量権の行使に対しても、右のような必要かつ相当と認められる範囲でのみ国に付与される教育内容への介入権はできるだけ抑制的であるべきであるという憲法上の要請、更には教育に対する「不当な支配」は許されないという教育基本法上の制約があると解さざるを得ないのであって、裁量権を行使する文部大臣には、右の解釈等に対する自覚が求められるばかりでなく、このような制約は、検定基準という裁量基準の解釈又は裁量基準に対する当てはめ判断においても、恣意的でなく抑制的で厳格な考慮がはらわれるべきであり、また、そのような姿勢がとられるべきであるという裁量権の行使に関する一定の制約になるものと解される。

2 裁量権の範囲

なお、現実の検定処分は、申請図書の記述に対する欠陥個所の発見と検定基準に原稿記述等を当てはめるという判定作業を伴うが、前述のとおり、検定基準は、概ね概括的、理念的、抽象的な基準を示すものであるから、右の裁量基準の解釈とこれへの当てはめ判断には、やや高度の教育専門的判断が必要となることは必然的なものである考えられ、その限りでは文部大臣には必要で十分な範囲の裁量権が与えられるべきものと解される。すなわち、検定基準の前記性質に鑑み、文部大臣における検定基準自体の解釈、原稿記述等の理解、更には検定基準への当てはめに関する判定は、専ら教育専門的な観点から行わざるを得ず、事柄の性質に応じて、ある程度高度で広い裁量権を認めるのが相当である。しかし、このことは、前述の恣意的でなく抑制的で厳格な考慮と姿勢を要求する裁量権行使に関する制約と矛盾するものではない。したがって、文部大臣検定基準の運用に関する裁量権は、一方では、検定基準自体の解釈、原稿記述等の理解、右当てはめに関する教育専門的な判断において、ある程度高度で広い裁量権を有するが、他方では、その裁量権の行使に際しては、恣意的でなく抑制的で厳格な考慮がはらわれ、姿勢がとられるべきであるという制約があると考えることができるのである。

3 当てはめ判定の明確性

このような文部大臣の裁量権の性質に照らすと、まず、文部大臣の検定意見の通知を含めた検定処分においては、欠陥とする原稿記述に当てはめるべき検定基準の内容は、できるだけ厳密に判定されるべきであり、単に「検定基準に反する」とか、「各教科共通の条件又は各教科固有の条件に反する」という程度の判定では不十分であって、「各教科共通の条件」又は「各教科固有の条件」中の「範囲及び程度」、「選択・扱い及び組織・分量」又は「正確性及び表記・表現」の項目のいずれに該当するか、更には、これらの項目の中のどの細項目に該当すると判定されたかが明確でなければならないと解される。

次に、文部大臣の合否の決定に関する検定処分は行政処分であって、検定制度上の不服申立ての制度の適用を受けるほか、司法審査の対象ともなり得るものであるから、これらの検定処分を受ける者において、これらの救済制度を利用することができる程度に、右の当てはめに関する判定の内容がある程度明確に通知されなければならないと解される。

したがって、右の検定処分に先だって行われる検定意見の通知においても、検定基準の「各教科共通の条件」又は「各教科固有の条件」中の「範囲及び程度」、「選択・扱い及び組織・分量」又は「正確性及び表記・表現」のいずれの項目のいずれの細項目に抵触するとの判定によって行われたかがある程度明確であることが必要であると考えられる。

4 司法審査の対象

(一) なお、そもそも司法審査の対象となるのは、原稿記述の適否ではなく、これに対する文部大臣の検定処分(検定意見を含む。)の適否であるから、裁判所は、文部大臣の立場と同様の立場に立って申請図書の原稿記述に検定基準を当てはめた上、検定処分における判定との対比を試みる必要はなく、検定処分の当てはめの判定等が、文部大臣の有する前述の裁量権の範囲内にあるか、又はこれを逸脱しているかなどを判断すれば足り、かつ、そのような判断が必要であると考えられる。

(二) 裁判所は、右のような検定処分ないし検定意見の判定過程に誤りがないかどうかを審査することとなるところ、検定処分等の右当てはめの判定等において看過し難い過誤があると判断がされるときは、裁量権の逸脱として違法性を認定することとなるが(前記最高裁判所平成九年八月二九日判決参照)、証拠により認定することができた検定意見の内容、趣旨及び理由によっても、右のいずれの項目中のいずれの細項目に該当すると判定されたかが判別することができないと認定すべきときにも、やはり当てはめ判定に関する過誤であるから、同じく裁量権の逸脱の違法を認定するのが相当である。

5 ところで、前記認定の検定基準は、「各教科共通の条件」又は「各教科固有の条件」のいずれにおいても、「範囲及び程度」の各細項目は教科書の内容としてあるべき範囲と記述の程度に関する基準を定め、「選択・扱い及び組織・分量」の各細項目は、専ら内容記述に関する教育的配慮の観点で、公正・中立、偏頗の排除と調和性、過度な専門性の排除、心身の健康と健全な情操の育成などに関する一般的な基準を定めるものであり、「正確性及び表記・表現」の各細項目は、内容と記述表現等の正確性等を要求する一般的基準を定めるものであって、その基準の性質にはそれぞれ特色があり、したがってその特色に応じて文部大臣の裁量権の性質と判断の内容にも差異があるというべきであるが、それらの基準への当てはめ判定をする際には、いずれの基準の場合でも、原稿記述に対する公正な理解と、関係する事実関係の正確な把握、関係する学説に対立がある場合には通説的見解の有無などの学説状況の公正な把握が必要となることには変わりがないものと解され、これらの認定作業の上に立って必要な検定基準への当てはめ判定が行われることとなるものと考えられる。

したがって、裁判所がこのような判定過程をたどる検定処分の適否を判断するに際しては、当然ながら、検定処分が行った事実関係又は学説状況の把握が相当であったか否かをまず審査の対象とし、次いで、右の把握に立って行われた検定基準への当てはめ判定が相当であったかについて審査の対象とすることとなる。裁判所は、このために、証拠、経験則又は一般社会通念と条理によって、文部大臣のこれらに対する把握と当てはめ判定の適否を判断することとなるのであるが、その結果、検定処分における事実関係若しくは学説状況等の把握が誤りであり、そのために検定基準への当てはめ判定も誤りとなるなど、検定処分における認定及び判定に看過し難い過誤があると判断される場合には、裁量権を逸脱したものとして違法との判断をすべきこととなる(前記最高裁判所平成九年八月二九日判決参照)。

6  更に、前述したような裁量権の行使に関する制約があることに照らし、検定処分の判定過程を全体的に観察し、前述の憲法上の要請等に違反するような、恣意的で抑制的でなく厳格な考慮と姿勢を失ったというべき事情があると認められる場合には、その検定処分には裁量権の濫用があったとして違法の判断をするのが相当であると考えられる。

7 原告の主張に対する判断

(一) 原告は、客観的かつ公正に証拠を評価判断し、経験則と条理のみに基づいて認定作業を行う教育専門的判断ないし裁量は、文部大臣にのみ存するのではなく、学術・教育などの文化を社会的に担っている各分野における専門家が教科書を執筆しているのであるから、その記述の当否が学術専門的判断にかかわる場合には、まず尊重されるべきは教科書執筆者の側の選択権であるとし、記述の当否につき両者の間に見解の相違がある場合においては、執筆者側の意見に相応の根拠があることが客観的に確認される限り、たとえ文部大臣の側にも相応の根拠が存在したとしても、文部大臣の判断を優先させるべき理由はないと主張するが、前述のとおり、そもそも司法審査の対象となるのは、原稿記述の適否ではなく、これに対する文部大臣の検定処分の適否であるから、裁判所は、文部大臣の有する前述の裁量権の逸脱や濫用の有無を審査判断することで足りるのであり、原稿記述が有する教育的判断の有益性や「原稿記述における看過しがたい過誤」の有無などを判断して、これと検定処分における判断と対比して優劣等を判定すべきではなく、またその必要もない。そのような判断によって検定処分の違法適法の判断が導き出されるものではないのである。

(二) 裁判所は、右の検定処分の当てはめ判断において、文部大臣が行った事実関係の把握の適否の判断をするに当たっては、証拠裁判の原則に則り、客観的かつ公正に証拠を評価判断し、経験則又は一般の社会通念と条理のみに基づいて認定作業を行うべきであり、学説状況の把握に対する適否の判断においても、同様の方法で客観的かつ公正に証拠文献を評価判断し、一般的でかつ客観性があると考えられる経験則又は社会通念と条理のみに基づいて判断作業を行うべきであって、このような判断作業の中に、例えば学説が有する権威とかあるいは教科書執筆者の優先権などを考慮に入れることは、むしろ公正な学説状況の把握、認定の妨げになる虞があると考えられる。

(三) 更に、原告は、教科書国定制を廃し、検定制を復活させた本旨は教科書内容における「画一性」の排除、民間の創意工夫にもとづく多様な内容の教科書の保障にあるから、検定における審査の限界は、文部省が適当と考える内容に教科書を画一化するまでの権限を含むものではなく、客観的にみて有害と言える程度に著しく不適当な記述を排除する程度の消極的なものに止められるべきであると主張するところ、右の主張は、文部大臣の準拠する検定基準の在り方に対する主張として意味を持つものと考えられるが、前記認定のとおり、現行検定基準は、概括的、理念的、抽象的な一般的基準であって、民間の創意工夫に基づく多様な内容の教科書の出現を阻害するものとはいえないし、したがって、右検定基準に準拠する文部大臣の検定処分も、その裁量権に逸脱、濫用がない限りは、教科書を画一化するものとはいえないと考えることができる。

(四) また、原告は、検定処分は「客観的にみて有害と言える程度に著しく不適当な記述」を排除する程度の消極的なものに止められるべきであり、検定意見が一応相当と判断される場合であっても、「原稿記述に看過し難い過誤がある」といえるような場合でなければ、検定意見は違法とすべきであるとして、その基準は、① 原稿記述が相応の根拠を欠く場合、すなわち明白な誤記誤植がある場合のほか明らかに合理的根拠を欠く場合、② 記述自体として相応の根拠があっても、他の者の権利又は信用を阻害すると客観的に認められる場合、③ 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳を阻害すると客観的に認められる場合であると主張するが、右のような基準は、前記認定によれば、一部は現行検定基準にも見ることができるから重複であるというべきであり、その余の部分は、現行検定基準には見当たらないから、結局文部大臣に検定基準以外の基準で検定処分を行うことを求めることになると考えられる。しかしながら、そもそもそのような基準の設定は、本来まず立法権、行政権の作用として行われるべきであって、そのような作用を待たずに、司法審査の判例でそのような新たな基準を設定することは、司法権の限界を超える疑いがあるというべきである。

第四  検定意見の内容に関する認定

一  認定の必要性

本件においては、通知された検定意見の内容について、当事者間に大きく争いがあるから、各検定意見の違法性を判断する前に、「テーマ(6)」と「テーマ(8)」に対して教科書調査官から通知された検定意見の具体的内容について認定することとする。

二  検定意見の定義と認定の方法

1 なお、前記認定の検定制度に照らしてみると、検定意見とは、申請図書に対する合否の決定を留保して、個々の記述又は単位的な記述等における欠陥を指摘し、これについて必要な記述等の修正等を行うことを求める文部大臣の行為であり、国家賠償法上は公務員が職務に関して行う公権力の行使に当たる。現行制度においては、旧検定制度におけるような「修正意見」と「改善意見」とを区別すべき根拠はなくなっているから、本件において教科書調査官の具体的告知(発言)内容から確定されるべき検定意見の認定は、右の観点に照らして行うべきこととなる。

次に、検定意見は、合否の決定に対してはその前提となる行為であるから、行政処分の場合と同様にその客観的な表示行為(通知)によって成立すると解すべきであり、行政機関の内部組織である文部大臣の補助機関又は諮問機関が内部的に認識した事項は検定意見の成立過程における未完成の意思内容に過ぎず、これが外部(国民)に告知されない限り、検定意見としては未成立の状態にあると解される。逆に、検定意見が検定意見として正当な権限ある機関から通知された以上、その内容が、行政機関の内部的機関である諮問機関等の意思決定の内容と齟齬していたとしても、特別の事情がない限り、通知された意見のとおり検定意見が成立するものと解される(最高裁判所昭和二九年九月二八日第三小法廷判決民集八巻九号一七七九頁参照)。

2 検定意見の認定の対象

このような観点からみると、教科書調査官が平成四年一〇月一日に文部省小会議室において、検定意見であるとして執筆者等に口頭で告知した内容をもって、専ら文部大臣の検定意見の通知であると認めるのが相当である。すなわち、前記認定によれば、右の場は、あらかじめ検定意見を通知する場であるとして設定されていたと認められ、検定法規とその運用上、通知の権限を有する教科書調査官から正式に検定意見として告知されていたことが認められるのであり、したがって、本件において通知された検定意見の内容を確定するに当たっては、その場で交付された「指摘事項一覧表」と教科書調査官が行った告知の内容を中心としてこれを認定すべきこととなる。もっとも本件においては、原告と被告とでは右口頭告知の内容の認識に差違があって争点となっており、これを検証することができる録音テープは存在しないため、現実には、出席者の記憶(証言)と出席者が取っていたというメモを経験則又は条理に照らして検討し、これらを総合勘案して検定意見の内容を認定する以外にない。

3 問題は、前記認定の事後相談の日取りを決めた平成四年一一月二七日の入江調査官と中村幸次の会話と同年一二月一日の事後相談の場における入江調査官の会話発言の内容であるが、原告は、この点について、一〇月一日における検定意見の通知のほか、一一月二七日及び一二月一日に入江調査官から中村幸次に対して告げられた会話内容の中にも、検定意見と認定すべきものがあると主張するところ、前記認定の経緯事実と入江証人に弁論の全趣旨を総合すれば、現行検定制度における実際の運用においては、検定意見の通知があった後、修正表の提出の前後を問わず、出版社の担当者等は、検定意見の確認又は修正表の記載の在り方についての意見を求めるなどのために、担当の教科書調査官に面会を申し入れて事後相談を行うことが少なくなく、教科書調査官らも、その趣旨を理解して積極的にこの相談の要請に応じていることが認められるのであるが、このような事後相談は、出版社の要望に応えて行われる事実上のいわゆる行政指導とみるのが相当であり、この相談の際の指導に誤りがあって相手方に不利益が生じた場合にそれが別個の国家賠償の対象となり得ることは別論として、右相談の場における教科書調査官の右会話内容は、原則として当然には検定意見の内容となるものではない。

すなわち、そもそも右のような事後相談は、検定制度上の規定の根拠を持つものではなく、検定規則と実施細則の上では、検定意見の通知に続いて又はその後に補足意見を告知することができるという制度もない。実際に行われている出版社と教科書調査官との事後相談は、前記認定のとおり、検定意見の通知が終了した後、不合格の決定を受けることを避けようとする出版社の申し出によって行われるものであるから、事実上のいわゆる行政指導にすぎず、右の事後相談の場で教科書調査官が先に通知した検定意見の内容を事実上補足して説明し、又は解説することがあるとしても、これをもって新たな検定意見の告知、あるいは新たな理由の追加又は補充と認める余地はないというべきである(すなわち、後日説明を根拠として新たな検定意見の内容等を認定することはできない。)。したがって、原則として、一一月二七日及び一二月一日の中村幸次に対する入江調査官の会話発言から、既に一〇月一日に通知が終了した検定意見の内容を追加又は補充するような内容を認定することはできない。もっとも、教科書調査官の後日発言であっても、一〇月一日の告知の内容、趣旨を認定するのに有益な資料となることがあり得ることは当然であり、これらは、一〇月一日に通知された検定意見の認定に際して用いるべき経験則又は条理の適用の仕方の問題である。

三  「テーマ(6)」に対する検定意見の内容

そこで、具体的な検定意見について検討する。

1 「テーマ(6)」の全体に対する検定意見

(一) 入江証人と原告本人、甲三の四、五、一一によれば、入江調査官は、「テーマ(6)」に関する検定意見の告知を行うに際して、冒頭、「テーマ(6)の「現在のマス-コミと私たち」というテーマの関連で取り上げられている内容が不明確であり、素材も適切であるとはいい難い。」という趣旨の発言をしたことが認められ、記録係として調査官の発言内容の記録に専念していたと認められる井谷敏のメモである甲三の五にも「全体的に見直し」という記載があることが認められるので、「「テーマ(6)」の全体について見直してほしい。」という趣旨の発言もあったものと認められる。

(二) 右の事実に、前記指摘事項一覧表において指摘箇所と指摘事項の欄に「テーマ(6)」の頁と表題が特定され、該当する検定基準として「選択・扱い及び組織・分量」が記載されていたことを照らし合わせれば、入江調査官の告知した検定意見の内容は、「「テーマ(6)」において、「現在のマス-コミと私たち」というテーマの下で取り上げられている内容が不明確であり、素材も適切であるとはいい難いので、「テーマ(6)」の全体を見直し、修正すべきである。」という内容の検定意見の通知があったと認めるのが相当である。

また、入江証人、中村証人、原告本人と弁論の全趣旨によれば、入江調査官は、右の発言に引き続き、次に認定するとおり、「天皇崩御の際のマスコミ報道について問題提起をしようとするのであれば、マスコミ各社の天皇に対する追悼の意を表すという番組編成の方針についても触れる必要がある。もし、そのようにするのであれば、天皇制の問題にも正面から触れることになり、「現在のマス-コミと私たち」というテーマの焦点がぼけてしまうから、これらの取扱いは、素材及び取扱いとしては適切ではないということになる。」との意見を述べていることが認められるが、この意見の告知は、単に昭和天皇逝去報道に関する素材と取扱いのみが不適切であるという趣旨にとどまらず、この素材の「テーマ(6)」において占める比重を考慮すると、「「テーマ(6)」全体を見直すべき」とする検定意見の理由ともなっていたと認めるのが相当である。

(三) この点について、原告は、検定意見とは原稿の個々の記述に対して具体的理由を付して欠陥を指摘するものでなければならないとして、入江調査官の「テーマ(6)」全体に対する見直しを求める告知内容は、具体的理由を付して欠陥を指摘するものとはなっていないから、個別検定意見のまとめとしての意味を有するのみであり、独立した検定意見としては成立していないと主張するのであるが、検定意見の通知において、記述の欠陥についてどの程度の理由を付するかは、その記述の内容、関係記述の関連性等、これに対する検定意見の趣旨、内容に照らして個別に判断しなければならない問題であり、必ずしも一律の基準で決することはできない。前述のとおり、入江調査官が引き続いて告知した個別意見には、「テーマ(6)」全体が何故に欠陥を有するか、すなわち何故にテーマとして取り上げた内容が不明確であり素材が適切ではないかを指摘する一応の理由が述べられていたと認められ、右の程度の理由の告知で「テーマ(6)」全体に対して述べられた検定意見の趣旨、根拠が不明確であるとはいえないから、右検定意見に理由が具備していないといえない。したがって、右の原告の主張は理由がない。

2 天皇逝去報道と湾岸戦争関連記述に対する検定意見

(一) 右各証拠と甲三の九に弁論の全趣旨を総合すると、入江調査官は、右意見に続けて、自らこの問題に関して作成したメモ(甲三の九の二枚目)に目をやりながら、「昭和天皇崩御のマスコミの報道についてであるが、テレビの特別番組の編成あるいはこれに対する視聴者の反応というような観点から取り扱おうとするのであれば、「考えてみよう1」の設問において、特別番組を三日間続ける予定であったのを途中で二日間に変更したというのは、事実に反するから、適切な素材とはいえない。また、天皇崩御の際のマスコミ報道について問題提起をしようとするのであれば、その当時は各界、各層の人々が国民の象徴である天皇に対して追悼の意を表しているのであるから、マスコミ各社のそういう追悼の意を表すという番組編成の方針についても触れる必要があるのではないか。そして、これに対する視聴者の反応についても記載する必要がある。」という趣旨の意見を述べ、更に続けて「もし、そのようにするのであれば、天皇制の問題にも正面から触れることになりますから、そうすると、「現在のマス-コミと私たち」というテーマの焦点がぼけてしまう。天皇のことを取り上げるとすれば、当然天皇制そのものの議論を踏まえてやるべきだけれども、それをやるにはこの二ページではとても収まらない大きなテーマのはずですよね。したがって、これらの取扱いは、素材及び取扱いとしては適切ではないということになります。」という趣旨の意見を述べたことが認められる(同旨の発言があったこと自体は、当事者間に争いがない。)。

(二) 特別番組の放映期間短縮に関する記述に対する検定意見

右の意見の内容と趣旨に鑑みれば、「テーマ(6)」の「考えてみよう1」の記述に対して、「天皇逝去の際、テレビの「特別番組を当初三日間続ける予定だったのを、途中で二日間に変更した」という記述部分は事実に反するから、素材として適切ではなく修正の必要がある。」という検定意見が通知されたと認めるのが相当である(この点について、当事者間に争いがない。)。

(三) 各界、各層の追悼の意等の不記述に対する検定意見

(1) 次に、右認定の意見内容と趣旨に入江証人を総合すると、入江調査官は、右検定意見に続けて、「「テーマ(6)」の天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等(本文及び新聞のテレビ番組欄の抜粋掲載)には、その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても記載する必要がある。」という検定意見を通知したと認定するのが相当である。

(2) これに続く発言である「これらを取り上げれば、自ずと、天皇制という大きな問題をも取り上げざるを得なくなり、その結果「現在のマス-コミと私たち」という「テーマ(6)」の主題が不明確なものとなるから、天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等は、素材及び取扱いとしては適切ではなく、修正する必要がある。」という意見部分は、右(1)の検定意見と連結していると認められ、その趣旨は、「結局は、天皇制という問題を取り上げざるを得なくなり、「現在のマス-コミと私たち」という「テーマ(6)」の主題が不明確なものとなるから、天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等は、素材及び取扱いとしては適切ではなく、修正する必要がある。」という内容の検定意見であったと解することができる。

したがって、この点に関する検定意見は、「「テーマ(6)」の天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等には、その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても記載する必要があり、これらを取り上げれば、自ずと天皇制という大きな問題をも取り上げざるを得なくなり、その結果「現在のマス-コミと私たち」という「テーマ(6)」の主題が不明確なものとなるから、天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等は、素材及び取扱いとしては適切ではなく、見直しの必要がある。」という複合的な内容を持つ検定意見であったと認めるのが相当である。なお、前記認定のとおり、この後半の意見部分は「テーマ(6)」の全体に対する検定意見の理由にもなっていたものと認められる。

(四) 「死去」という用語に対する検定意見

更に、甲三の五、甲三の一一、入江証人、中村証人、原告本人によれば、入江調査官は、続けて、「本文」と「考えてみよう1」において使用されている「「昭和天皇の死去」という表現に関して、「『死去』という表現は、象徴という存在なんだから、もう少し丁寧な言い回しにしてください。皇室典範二五条に『天皇が崩じたときは』という表現があるのだから、崩御ということもあってもいいんだし、別の表現でもいいです。」との発言をしたことが認められる。その趣旨は、入江証人によれば、天皇は、憲法上日本国と日本国民統合の象徴であり、現代社会の教科書において「死去」という表現を用いることは、学習上適切ではないという趣旨であったというのであるが、これらの事実によれば、「天皇の憲法上の地位に鑑み、昭和天皇の「死去」という表現は学習上適切ではないので修正する必要がある。」という検定意見が通知されたと認めるのが相当である。

(五) 湾岸戦争関連の注①に対する意見

(1) 甲三の一一、入江証人、中村証人、原告本人に弁論の全趣旨を総合すると、入江調査官は、「テーマ(6)」の注①の記述(すなわち「多国籍軍は、クェート領内への反撃作戦は海からの上陸作戦ではじめるとマスコミに報道するようにしむけ、実際は内陸から攻め込んだ。「おかげで敵の反撃は弱かった」と、多国籍軍首脳は記者たちに礼を述べたという。」という説明記述)に関して、「そういった事実はあるのか。作戦は秘密のうちにやるものであり、このようなことを言うとは思えない。」との疑問を投げかけ、「この点については、事実確認をお願いしたい。」と告知したところ、原告らもこれを了解したことが認められる。したがって、この事実関係を検討すると、入江調査官から疑問の提示とともに事実確認の要求が出され、そのための資料提出が約束されたものと認めることができる。

(2) 右の事実によれば、入江調査官の右発言は、注①の記述が事実に反するのではないかとの疑問を提示したに止まり、必ずしも事実に反すると断定したものとはいえない。また、具体的な理由を上げて教育上不適切であるという指摘を指摘したものでもないことは明らかである。したがって、被告の主張するように、右の発言は、検定意見の「記述の欠陥を具体的に指摘しその修正を求める」という要件に該当しないと見ることもできるが(被告は、事実上の資料提出要求にすぎないと主張する。)、中村証人と原告本人によれば、原告らは、いずれも入江調査官の右事実確認の要求を検定意見であると認識していたことが認められ、前記認定によれば、中村幸次は平成四年一一月一〇日に修正表を文部省に提出した際に右の点の資料として原告から言付かった朝日新聞社会部編「メディアの湾岸戦争」のコピー(乙五の二の一)と雑誌文芸春秋一九九一年五月号の松原久子「戦勝国アメリカよ驕るなかれ」という記事のコピー(甲五の二の二)を入江調査官に提出し、その後、同年一一月二七日に入江調査官と面会した際に、「先生、新聞じゃだめですよね。雑誌じゃだめですよね。」と入江調査官の要求に合致する資料の提出となっていないことを予測するような発言をしていたことが認められるのであって、このことは、中村らが入江調査官の右資料提出要求を検定意見と同視していたことを示すものと認められる。

(3) ところで、前述のとおり、憲法上の観点から見れば、子どもの教育に関する関係者は、本来一致協力して子供の教育を受ける権利に応えるべきものであるということもできるのであるから、この観点で見れば、教科書検定の手続において文部大臣側と申請図書の執筆者側とにおいての意見の交換、資料の検討等の共同の作業が存在すること自体はこれを消極的に捉えるべきではないと考えられるが、右に述べた憲法上の観点は、文部大臣の恣意的な検定運用を禁止するものであることは明らかであり、したがって検定意見の通知にはある程度の手続上の公正さ、厳格さを要求することにもつながるべきものと解すべきである。したがって、このような手続の公正性等の観点からみれば、文部大臣から申請者側に対して記述内容の事実確認のための資料提出の要求があった場合において、それが実際の具体的事情の下においては申請者側の不利益に結びつき得ると認められるときは、検定意見の通知があったものとして、国家賠償法一条の適用の対象とするのが相当であると考えられる。

一般に現行検定制度における検定意見の通知は、合否の決定を留保して再度の審査を受けるべく欠陥と指摘された一定の記述の修正を求める行為であるが、文部大臣において検定意見通知の場で記述内容の事実確認を要求しこれに応ずる形で申請者側からの資料提出の約束がされたに止まる場合であっても、他の検定意見との関連において、申請者側が約束に反して右資料提出を怠り事実の確認ができなかったとき、提出された資料が不適切で同じく事実確認ができなかったとき、提出された資料が適切であっても事実の不存在又は事実誤認などが判明したときなどには、なお申請図書について検定審査不合格の決定を受ける危険があるという場合があり得ると考えられる。

(4) これを本件について見ると、前記認定のとおり、一連の検定意見の通知の場で、既に文部大臣から「「テーマ(6)」全体に対して素材が適切とは言い難く記述を見直すべきである」という趣旨の検定意見が通知されており、また、右の資料提出の要求の理由と認められる「そういった事実はあるのか。作戦は秘密のうちにやるものであり、このようなことを言うとは思えない。」という強い疑問が投げかけられていたというのであるから、特に「検定意見ではないが」というような留保を付されていない限り、これを聞いた被通知者は、右の資料提出の要求を検定意見であろうと認識するのが当然であると考えられる。すなわち、既に「テーマ(6)」全体に対する検定意見の通知がされていることから、申請者側において、右資料提出要求に応じないときは、検定不合格の決定を受ける危険性が一層増すことになると認識していたものと推認されるし、実際上も、申請者側が約束に反して右資料提出を怠りその結果事実の確認ができなかった場合などには、なお申請図書について検定審査不合格の決定を受ける危険を負担したものと考えられる。入江証人は、この点について、資料提出の要求は検定意見としての通知ではないから、資料提出の要求に応じなくてもこれを理由に検定不合格の決定をすることはできないと供述するところ、そのような理解自体は現行検定制度上の解釈としては正当であるといえるが、右のような解釈は、資料提出要求が検定意見ではないとした場合のものであり、これをもって検定意見と認めるべきかどうかの判断の根拠とすることはできない。

(5) このようにして、入江調査官の前記資料提出の要求は、右のような具体的事情の下では、了解された資料提出の約束に反して資料提出がなく事実の確認ができなかった場合、又は資料は提出されたがその資料によっても事実の不存在や事実誤認などが判明した場合などには、条理上、当然に記述の修正が必要となる筈のものであったと認められ、これを原因の一つとして、本件申請図書に対して検定不合格の決定がされる不利益が生ずることがあり得たと認められるから、資料提出の要求とともに、「記述内容が事実であるかについては疑問があり、提出された資料により事実確認ができなかった場合等には、その記述の修正を求める。」という検定意見の告知があったと解するのが相当である。

以上のとおり、「テーマ(6)」の注①に対しては、「記述内容が事実であるかについては疑問があり、提出された適切な資料により事実の確認ができない場合は、記述の修正を求める。」という条件付きの検定意見が通知されたと認めるのが相当である。

(六) クルド族に関する注②に対する意見

(1) また、甲三の一一、甲三の五、入江証人、中村証人、原告本人と弁論の全趣旨によれば、入江調査官は、「テーマ(6)」の注②(すなわち「米国陸軍の研究所の分析によって、クルド族に用いられた毒ガスは、その成分から、イラクではなく、イラク近隣諸国が所有しているものであることが明らかにされていた。」という記述)について、続けて「こういうことがあるとは思えない。事実に反しているんじゃないか。」という指摘があり、これに対しても事実確認のための資料提出が要求されることとなったという事実関係を認めることができる。

(2) 右の事実によれば、右注②の記述に対しても、入江調査官からは事実の信憑性に対する強い疑問が提示され、その疑問に対して資料の提出が約束されたという事実の経緯があるということができるから、前述した注①に関する判断と同様の判断をすることができる。

(3) したがって、「テーマ(6)」の注②に対しても、入江調査官から「記述内容が事実であるかについては疑問があり、提出された適切な資料により事実の確認ができない場合は、記述の修正を求める。」という趣旨の条件付きの検定意見が通知されたと認めるのが相当である。

四  「テーマ(8)」に対する検定意見の内容

次に「テーマ(8)」に対して通知された検定意見の内容について検討する。

1 「テーマ(8)」の全体に対する検定意見

(一) 原告は、「テーマ(8)」の全体に対する検定意見は、入江調査官からの何らの通知がなく不存在であると主張するので検討するに、前記甲三の四、五及び一一、入江証人、中村証人、原告本人に弁論の全趣旨を総合すると、入江調査官は、「テーマ(8)」に対する検定意見の告知が終了すると、直ちに「テーマ(8)」に対する検定意見の告知に入ったが、その内容は、次に認定する各記述等に対する検定意見であり、ことさら「テーマ(8)」の全体に対する意見が特定されて告知されることはなかったことが認められる。しかしながら、甲三の四によれば、入江調査官がその場で配布した「指摘事項一覧表」においては、「指摘箇所」として「128―129」頁と「テーマ(8)」が掲げられ、指摘事項についても「アジアの中の日本」とその表題自体が記載されており、「検定基準」の欄には「選択・扱い及び組織・分量」に○が付されていたことが認められる。

(二) そうすると、右指摘事項一覧表を見る限り、「テーマ(8)」全体が指摘箇所となり、「選択・扱い及び組織・分量」の検定基準に触れる旨の検定意見が通知されることとなっていたことが容易に判別することができる状態であったと認められる。右の認定のとおり、入江調査官は、この点についての具体的検定意見の内容を口頭で告知していないのであるが、直ちに「テーマ(8)」の個別記述に対する各検定意見の告知に入って、次に認定するように多数の個別検定意見が通知されたのであるから、これらの総和は、「テーマ(8)」全体に対する検定意見の具体的理由となっていたと解することができる。前述のとおり、検定意見は、記述の欠陥を具体的に指摘し、具体的な理由が付されるべきものであるが、前述のとおり、どの程度の指摘と理由を付すべきかについては、当該記述と検定意見の内容、趣旨に照らして個別に判定すべきものであり、「テーマ(8)」に対しては、指摘事項一覧表の前述の記載と、後記認定の複数の記述に対する具体的検定意見の総和が欠陥の指摘とその理由に相当するものであったと認められる。したがって、これらを総合すると、「テーマ(8)」全体に対して、「複数の記述の欠陥があり、全体として「選択・扱い及び組織・分量」の検定基準に抵触するから、見直しの必要がある。」という検定意見の通知があったものと認めることができる。

(三) 原告は、具体的な告知がなくその理由の告知もないとして検定意見としては不成立であると主張するが、前述のとおりであって、「テーマ(8)」の全体に対する検定意見は、指摘事項一覧表の記載と各記述に対する検定意見により、その内容と理由を理解することが十分に可能であったと認められるから、この点に関する原告の主張は理由がない。

2 「テーマ(8)」の個別記述に対する検定意見

(一)(1) そこで、「テーマ(8)」における各検定意見の内容について検討するに、入江調査官が、冒頭本文後段の記述について「『戦後、日本は平和主義を基本としているが、』とあるが、この『が』は逆接であるので、次に続く教科書問題、昭和天皇の大喪の礼の代表派遣、掃海艇派遣問題などが平和主義に反する問題であるように読める。したがって、これを再検討して載きたい。」という趣旨の告知したことは、当事者間に争いがない。

(2) したがって、この点については、「『戦後、日本は平和主義を基本としているが、一九八二年の教科書問題③、一九八九年の昭和天皇の大喪の礼の代表派遣④、一九九一年の掃海艇派遣問題⑤などで、内外に議論がおこっている。』という記述は、教科書問題、昭和天皇の大喪の礼の代表派遣、掃海艇派遣問題などが平和主義に反する問題であるように読めるので再検討をする必要がある。」という趣旨の検定意見が通知されたと認めることができる。

(二) 注②と「脱亜論」引用文に対する検定意見

(1) 入江証人は、右の検定意見の告知の場では、「テーマ(8)」の注②の記載(すなわち、本文中の「脱亜入欧」に付された注であり、「福沢諭吉が発表した「脱亜論」の主張を要約したことばで、欧米を手本とした近代化を最優先し、そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだというもの。」という記載)と掲載されている福沢諭吉の「脱亜論」の抜粋文につき、「福沢諭吉の脱亜論が一面的な記述になっていますから、脱亜論を書いたときの背景事情を踏まえて、再考していただきたい。」という告知を行ったと供述するが、その告知を聞いた原告のメモ(甲三の一一、一二)には「脱亜論―いろいろ議論がある。福翁自伝を読んでほしい。これでは気の毒」という記載があり、また、原告本人によれば、その際の入江調査官の口調は何かを読んでいるような早口であったと供述するが、入江証人は、入江調査官の依頼により小林調査官の作成したこの問題に関するメモ(甲三の九。以下「小林メモ」という。)を読み上げてはいないと証言するところ、甲三の九のメモは長文であって、その要旨を告知することでも相当の時間を要すると考えられるから、結局、入江調査官は小林メモの趣旨を念頭に置きながら、その内容を要約して別の表現で告知したものと推認するのが相当である。そうすると、これらを総合して、結局、この点に関する入江調査官の発言は、「「脱亜論」に関する評価は種々分かれており、いろいろ議論があるが、一般には福沢諭吉の思想を代表するものとは考えられていない。これでは記述が一面的になっている。朝鮮の甲申事変を契機として書かれたという背景事情をも考慮して書いて欲しい。」というような趣旨のものであったと認めるのが相当である。

(2) 右の発言の趣旨に鑑みると、入江調査官の「テーマ(8)」の注②の記載と「脱亜論」の引用文に対する検定意見は、「脱亜論の扱いが一面的であるので、それが書かれた背景事情をも考慮して記述を再考してほしい。」というものであったと認めることができる。

(3) この点に関して、原告は、入江調査官は平成四年一二月一日の修正表に関する相談の際に、中村幸次に対して甲三の九の小林調査官作成のメモを交付しているから、右メモの内容が補足意見として告知されたという趣旨の主張をするが、前述のとおり、右相談の場は、修正表に関する行政指導たる事後相談の場であるから、検定意見告知の場における発言に基づくことなく、事後相談の場における会話や資料提供の内容をもって、検定意見について補足的な通知があったと認定することはできないと解すべきである。

(三) 「脱亜論」と「氷川清話」の各引用文等に対する検定意見

(1) 続いて、前記証拠を総合すると、入江調査官は、「勝海舟の「氷川清話」の引用文も含めて、前後を端折って、都合の良いところだけを抜き出した感があるので、再検討をしていただきたい。」という趣旨の検定意見の告知をしたものと認められる。

(2) 原告は、右発言は、「氷川清話」の引用文に対してのみに向けられた発言であると主張するが、右の発言を記録したと認められる井谷敏作成のメモ(甲三の五)には、「福沢諭吉が脱亜論を書いた背後事情を入れるべき。勝海舟の資料も含めて、前後を端折って、都合のいい部分を抜き書きした感がある。」との記載があるから、右の文意からみると、井谷敏は、右の発言を脱亜論の引用文に対しても向けられたものと聞いていたことが推認されるし、入江証人も同様の証言をしているのであるから、入江調査官の右の発言は、単に「氷川清話」の引用文のみに関する指摘に止まるものではなかったと認めるのが相当である。

(3) ところで、被告は、右の発言は、「氷川清話」に関する注⑥の記述に対しても向けられたものであると主張し、入江証人も同旨の供述をするので検討するに、前記認定のとおり、右注⑥は、「氷川清話」の抜粋文(「朝鮮は昔お師匠様」)に掲げられた著者名「勝海舟」の横に付された注であり、その記載は「日本国内で征韓論が勢いを増したのに対し、勝海舟は、渡来人の時代以来、日本は繰り返して朝鮮から文化を吸収してきたことを指摘した。勝海舟のこの文章では触れていないが、江戸時代も朝鮮通信使の往来を通じて、日本は多くのことを学んだ。」という内容のものであるが、その注の付された場所とその内容に鑑みれば、前記入江調査官の「都合の良いところだけを抜き出した感がある。」という発言の趣旨は、その内容に照し、注⑥に対しても当てはまると考えても不自然ではない。しかし、右の井谷のメモの記載は「勝海舟の資料も含めて、前後を端折って、都合のいい部分を抜き書きした感がある。」というものであるから、実際には「勝海舟の資料」「前後を端折って」「都合のいい部分を抜き書き」しているという言葉の文脈で発言されたものと推認される。してみると、この言葉からは、一応「氷川清話」の引用文に対する発言と理解するのが自然であり、前記認定のとおり、後日提出された修正表(第一次修正表)においても、注⑥の記載には何ら変更修正が加えられていなかったことをも考え併せれば、原告らが右発言の対象に注⑥が含まれるとは理解していなかった蓋然性が高いと認められる。

前述のとおり、検定意見の告知は、その性質上、ある程度の明確性が必要であるのであり、注⑥の記載を含めて検定意見の対象にするのであれば、その旨が明確でなければならなかったと考えられる。入江証人は、注⑥も含まれるという点を述べたと供述するが、その前後の供述に照らせば右供述は必ずしも明確ではなく、聞き手のメモである前記甲三の五、甲三の一一にはこれを窺わせる記載が全くないことを考慮すると、入江証人の右証言をにわかに信用することもできない。また、入江調査官が発言の際に手にしていたと推認される甲三の九の小林メモには、「海舟の述懐のこの辺りの全体的文脈は、日清戦争後の国内の支那への侮りを警戒して、そのような意識を戒める意味あいで、中国文化の大きさ、深さを高く評価するというものであり、その関連で朝鮮をも歴史的に評価している。注6では「征韓論が勢いを増したのに対し」とあるが、征韓論批判は、少なくとも「氷川清話」からは直接読み取ることはできない。したがって、この注も不適切なものである。そればかりではなく、引用文のすぐ後には次のように述べられている。「亜細亜の舞台に立って、世界を相手に国光を輝し、国益をはかるだけの覚悟が必要だ。」先の文との関係で、引用者はこの言葉をどのように解釈するのかを、明示すべきである。」との記載があるので、この小林メモの内容が概ね入江調査官のこの点に対する検定意見形成の動機となり、また検定意見の内容とも概ね合致していたものと推認されるところ、右の小林メモにも注⑥が不適切であるという指摘があるから、入江調査官の告知に際して、注⑥に対しても検定意見を述べようとの動機があったことは十分に認めることができるが、注⑥についての小林メモの記載は、征韓論批判は「氷川清話」からは直接読み取ることができないという点が注⑥の不適切さの理由とされているのであって、注⑥の記載自体に「都合のいい部分のみを抜き出した」という欠陥があるという指摘ではないのである。そうすると、「勝海舟の「氷川清話」の引用文も含めて、前後を端折って、都合の良いところだけを抜き出した感があるので、再検討をしていただきたい。」という発言の中に、「注⑥も同様である。」とか「注⑥を含めてであるが」という趣旨の告知があったと認めるには十分な根拠が乏しいというべきである。したがって、「氷川清話」に関する検定意見の告知においては、特に注⑥に対しては言及がなかったと認めるのが相当である。

(4) したがって、この点に関する検定意見は、「脱亜論」と「氷川清話」の各引用文に対して、「都合の良いところばかりを抜き出している感があるので再検討していただきたい。」という検定意見が通知されたと認めるのが相当である。

(四) 「考えてみよう1」の設問に対する検定意見

(1) 入江証人によれば、引き続いて、入江調査官は、「「考えてみよう1」は、高校生には無理だから、本文中の資料の扱いとの関連で再検討していただきたい。」旨の意見を告知したものと認められる。入江調査官が参照したと認められる前記小林メモ(甲三の九)には、「「考えてみよう1」で両者の対比とその差異の根拠を問うているが、第一に朝鮮問題そのものの脈絡が両者では既に時代として異なっていること、第二にその論述のかたちが著しく異なっていることなどから、かりに上に述べたようなことを生徒が調べて理解したとしても、両者の並列的な単純比較は意味を成さないどころか、この時代の精神を誤解させてしまうおそれすらある。さらに、この二人のアジアへの見方の差異の根拠の理解などとうてい高校生の課題とはいえない。」とあるから、このメモで指摘する点などが、入江調査官のこの意見形成の動機となっていたものと認めることができる。

(2) したがって、「考えてみよう1」に対して、「「考えてみよう1」の設問は、高校生の課題としては無理があるから、掲載した資料との関連で、再検討をしてほしい。」という検定意見が通知されたものと認めるのが相当である。

(五) 掃海艇派遣に関する注⑤に対する検定意見

(1) 前記各証拠によれば、続いて入江調査官は、注⑤の記述について「掃海艇は、湾岸戦争終了後、我が国のタンカーなどの船舶の航行の安全を図るために派遣されたものですから、それが落ちていますね。」と述べた後、一呼吸を置いて、「東南アジアの国々については、声を聞かなければならないのですかねぇ。少し、低姿勢ではないですか。」と述べたことを認めることができる。

(2) この事実によれば、入江調査官の検定意見は、まず、「注⑤の掃海艇派遣に関する記述には、湾岸戦争終了の後に、我が国の船舶の航行の安全を図るために派遣されたものであるという時期、目的の記載がなく、これを書き込む修正を行う必要がある。」という趣旨のものであったと認められる。前記井谷敏のメモ(甲三の五)には「わが国のタンカーの安全の為に派遣したのであって」という記載のみが残されているが、その趣旨を考えれば、湾岸戦争の終了後であることの指摘があったと理解することができなくはないというべきであり、入江調査官の発言に関する右の認定を左右するまでには至らない(もっとも、入江証人は、「掃海艇派遣の時期、目的を記載してほしい」という発言をしたと供述するが、明確にそのような発言があったとすれば、井谷敏又は原告のメモ(甲三の五、甲三の一一)にはその旨の記載が残っている筈であると考えられるところ、各メモには「時期、目的」という記載は見当たらず、原告本人と中村証人も右のような発言がされたことを否定しているところであるから、明確にそのような発言があったとまでは認定することができない。)。したがって、右の「掃海艇は、湾岸戦争終了後、我が国のタンカー等の船舶の航行の安全を図るために派遣されたものですから、それが落ちていますね。」の発言の文意を検討すれば、「掃海艇派遣の時期、目的が欠落している」ことを指摘する意見であることは、さほどの困難なくして理解することができるというべきであり、検定意見の内容としては、右のとおり認定するのが相当である。

(3) 問題は、続く発言である「東南アジアの国々については、声を聞かなければならないのですかねぇ。少し、低姿勢ではないですか。」という部分であるが、まず、右の発言が、その趣旨内容からみて、注⑤の後段の「東南アジア諸国からは、派遣を決定する以前に意見を聞いてほしかったという声があいついで出された。」という記述に対するものであったことは、容易にこれを認めることができる(中村証人と原告本人によれば、原告らもそのように理解していたものと認められる。)

ところで、中村証人によれば、当初中村幸治は右の発言は個人的な感想かなと感じたけれども、現行検定制度には改善意見という制度がないのであるから、やはり検定意見に含まれるものと理解したというのであり、原告本人も同様に検定意見として聞いたと供述し、井谷敏のメモ(甲三の五)にも「わが国のタンカーの安全の為に派遣したのであって、東南アジアの国々に意見を求める必要はない。低姿勢すぎるのでは。」と記載されているのであって、右の記載を見ても、個人的感想にすぎないものであったと推認すべき内容であるとは必ずしもいえない。

一般に、検定意見としての通知があったか否かは、録音機が使用されていない場合においては、発言の趣旨内容を関係者の記憶とメモに基づいて客観的に認定し、右告知内容がその場の当事者にどのように理解されるべき発言であったかなど、告知が行われた時と場所などの客観的な状況を考慮して判断する以外にないと考えられる。この観点からみると、右の発言が正規の検定意見通知の場で述べられており、発言の口調自体はあるいは個人的な感想と解することもできるものであったと考えられるけれども、その発言内容は、比較的印象的な表現で記述の欠陥を指摘するものであると考えられ、かつ、前記認定のとおり、冒頭に手渡された指摘事項一覧表の上では「テーマ(8)」全体が検定意見の対象として記載されていたのであって、したがって、その場で聞き入っていた関係者らは、特に「検定意見ではないが」とか「個人的感想であるが」という留保の発言がない限り、原則として告知内容を検定意見として聞いたであろうことは容易に理解することができる状況であったと認められる(現に、原告本人と中村らも検定意見である理解したと認められる。)。

また、その表現内容を検討しても、確かに記述の修正を求める発言ではないが、記述の欠陥を指摘するものであるということはできるのであって、その趣旨を「原文の記述はやや低姿勢であるから記述を修正する必要がある」という理解に結びつけることは比較的容易であり、表面的な表現だけでは判定することはできないというべきである。

このようにして、これらの諸事情を総合勘案すると、「「テーマ(8)」全体を見直すべきである。」という包括的な検定意見が通知されていた状況下においては、入江調査官の右の発言は、「注⑤の後段の記述は、掃海艇派遣に関して東南アジア諸国の意見を聞くべきかは疑問であり、原文記述はやや低姿勢であるから、記述を修正する必要がある。」という検定意見の通知であったと認めるのが相当である。

(4) 被告は、この点について、右の発言部分は、入江調査官の個人的な感想であり、記述の具体的な欠陥を指摘するものではなくその修正を要求するものでもないから検定意見ではなかったと主張し、入江証人も、個人的感想であることは聞き手にも理解できた筈であると供述するが、前述のとおり、既に「テーマ(8)」の全体が検定意見の対象となっており、その前後を通じて「個人的な感想である。」という断りはなく、口調がやや他の箇所と異なっていたと推認することはできるが、正規の検定意見告知の場で発言されているために、聞き手はいずれも検定意見と理解していたというのであるから、前述した観点に照らし、これが検定意見と認定されることはやむを得ないというべきである。

(5) また、原告は、「掃海艇派遣の時期、目的を記載せよ」という検定意見がなかったとする一方、「掃海艇派遣について、東南アジアの国々の意見を求める必要はない。低姿勢すぎるから、注⑤は削除すべきである」という検定意見であったと主張するが、「低姿勢ではないですかねぇ」という発言から「削除を要求する」という理解が直ちに出てくるものとは考えられず、原告の右主張は採用することができない。

(六) ASEAN諸国における対日世論調査に対する検定意見

前記認定のとおり、「テーマ(8)」には本文に続いて「ASEAN諸国における対日世論調査」と題する第二次世界大戦中の日本に対する今日の感情等を問うASEAN諸国における世論調査の結果を示す棒グラフが掲載されていたが、入江調査官か右棒グラフの掲載に対して、「出典を明示する必要がある。」旨の告知をしたことは、当事者間に争いがなく、右の告知内容が検定意見となることは明らかである。

(七) 新明日報の引用に対する検定意見

(1) 前記認定のとおり、「テーマ(8)」においては、マレーシアの華語(中国語)新聞の見出し⑦(『新明日報』1984年8月17日付より)」という説明文の上に「日治時期蝗軍瘋狂大屠殺三百餘具無辜白骨埋荒郊」というポイントの大きい新聞見出し文が掲載され、そこに付された注⑦には、「日本が統治していた時期、日本軍が大虐殺を行い、三〇〇余の白骨が荒野に埋まっている、という意味。」の解説の記載があったが、甲三の一一、一二と入江証人、原告本人によれば、入江調査官は、右新明日報の見出しの掲載に対して、「どうしても載せるのですか。載せるのであれば、それなりの配慮をしていただきたい。」という発言をしていたことが認められる。

(2) 右の発言の趣旨に鑑みれば、この点に関する検定意見の内容は、「新明日報の見出しを載せるのであれば、他の箇所との記載に配慮していただきたい。」という趣旨のものであったと認めるのが相当である。

(八) 本文記載と注③に対する検定意見

(1) また、入江調査官は、「テーマ(8)」の本文中の「戦後、日本は平和主義を基本としているが、一九八二年の教科書問題③、一九八九年の昭和天皇の大喪の礼の代表派遣④、一九九一年の掃海艇派遣問題⑤などで、内外に議論がおこっている。」について付された注③(「「侵略」を「進出」と書き替えるように指示があったことに、近隣諸国から抗議や批判の声があがったもの。東南アジアに関する記述の部分で、この指示通りに書き替えた例が、この年にもあった。」という記載)について「これは本当か。文部省内では誰も確認することができない。」という疑問を呈したところ、原告から「資料を提出します。」という応答があり、この点については事実確認のために原告から資料の提出を受けることが了解されたことについては、当事者間に争いがない。

(2) 被告は、この点に対しては、入江調査官から記述の欠陥の指摘と修正要求が出ていないことから、検定意見ではなく、事実確認の要求があったにすぎないと主張し、入江証人もその旨供述するが、前述したところと同様に、「テーマ(8)」の全体について検定意見が告知され、教科書調査官からは事実の真偽に対する疑問が提示され、これに応ずる形で資料提出が約束されたという経緯があるから、提出された定説の資料で事実の確認ができない場合は、記述の修正を求める趣旨であったと解するのが相当であり、「事実確認できなかったときは記述の修正を求める。」という条件付きの検定意見が告知されたと認めるのが相当である。

第五  原告の主張する違法違憲の検定意見の範囲について

一  原告の主張の趣旨

そこで、各検定意見に対して、違法違憲を判断することとするが、原告は、訴状その他の準備書面で、違法又は違憲(いわゆる適用違憲)として主張する検定意見の範囲を限定するとしている。それによれば、原告の主張する違憲又は違法の検定意見の範囲は、次のものに限定されていると解される。

二  「テーマ(6)」における「違法」な検定意見

1 弁論の全趣旨(原告の主張)によれば、原告は、「テーマ(6)」に関して通知された検定意見の内、次に掲げるものについてのみ、その違法を主張するものと認められる。

2 「「テーマ(6)」の「現在のマス-コミと私たち」という主題の関連で取り上げられている内容が不明確であり、素材も適切であるとはいい難いので、見直してほしい。」という「テーマ(6)」全体に対する検定意見。

原告は、この検定意見について、理由を具備せず、検定意見としては不成立であると主張するが、前記認定のとおり、検定意見の通知があったと認定することに欠けるところはない。原告の右主張の趣旨からみると、「テーマ(6)」の全体に対する検定意見に対しては特に違法を主張しないものとも解されるが、一方で原告は、右の全体に対する意見は、独立した検定意見とはいえないが「テーマ(6)」の個別の検定意見のまとめとしての意味があるとも主張し、右個別検定意見に対しては違法を主張しているのであるから、独立した検定意見として裁判所が認定するのであれば、予備的にその違法性を主張するという立場になるものと解される。したがって、「テーマ(6)」の全体に対する検定意見に対しても、原告は違法を主張するものとしてこれを判断することとする。

3 「「考えてみよう1」の「特別番組を三日間続ける予定だったのを、途中で二日間に変更した」という記述部分は事実に反するから、素材として適切ではなく、修正の必要がある。」という検定意見。

4 「天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等(本文及び新聞のテレビ番組欄の転載)には、その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても記載する必要がある。また、その記載をすれば、自ずと天皇制という大きな問題をも取り上げざるを得なくなり、その結果「現在のマス-コミと私たち」という「テーマ(6)」の主題が不明確なものとなるから、天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等は、素材及び取扱いとしては適切ではなく、見直しの必要がある。」という検定意見。

5 注①に対する「記述内容が事実であるかについては疑問があり、提出された適切な資料により事実の確認ができない場合は、記述の修正を求める。」という検定意見。

6 注②に対する「記述内容が事実であるかについては疑問があり、提出された適切な資料により事実の確認ができない場合は、記述の修正を求める。」という検定意見。

三  「テーマ(8)」における「違法」な検定意見

1 ところで、「テーマ(8)」に関しては、被告は、全部で一個の検定意見が通知されたに過ぎないと主張するが、前記認定によれば、七個の個別検定意見が告知されたと認めるのが相当である。また、前記認定の入江調査官の検定意見告知の内容と趣旨を総合すれば、「テーマ(8)」全体の見直しを要求する検定意見の通知もあったものと認められる。

その内、原告が「違法」と主張する検定意見は、次のとおりである。

2 注②と「脱亜論」の引用文掲載に対する「脱亜論の扱いが一面的であるので、それが書かれた背景事情をも考慮して記述を再考してほしい。」という検定意見。

3 「勝海舟の「氷川清話」の引用文も含めて、前後を端折って、都合の良いところだけを抜き出した感があるので、再検討をしていただきたい。」という検定意見。

4 「「考えてみよう1」は、高校生の課題としては無理があるから、掲載した資料との関連で、この設問は再検討をしてほしい。」という検定意見。

5 注⑤の前段に対する「掃海艇派遣は、湾岸戦争終了の後に、我が国の船舶の航行の安全を図るために派遣されたものであるという時期、目的の記載がなく、これを書き込む修正を行う必要がある。」という検定意見。

6 注⑤の後段に対する「掃海艇派遣に関して東南アジア諸国の意見を聞くべきかは疑問であり、原文記述はやや低姿勢であるから、見直しの必要がある。」という検定意見。

第六  「テーマ(6)」関係の検定意見の適法性又は違法性

「テーマ(6)」の全体に対する検定意見の違法性に関する判断は後に行うこととし、先に個別の検定意見について判断する。

一  「テーマ(6)」の本文記述

前記認定によれば、「テーマ(6)」は、「現在のマス-コミと私たち」という表題の下で、横書きで本文に次の文章を掲げている。すなわち、「一九八九(昭和六四)年一月七日の朝、昭和天皇の死去が発表されると、新聞や放送は特別態勢に入り、テレビは特別番組を次つぎと放送した。テレビ局には、視聴者からの電話が殺到し、次第に抗議の電話が増え、街のレンタル-ビデオ店は数日間、大繁盛だったという。また、教育テレビはいつになく視聴率があがった。(改行)一九九一年の湾岸戦争では、イラクだけでなくアメリカを中心とする多国籍軍側も徹底した情報コントロールを行った①。(改行)また、イラクのフセイン大統領を「中東のヒトラー」とたとえた根拠の一つに、彼が国内のクルド族の反乱鎮圧に毒ガスを使ったことが伝えられたが、この時すでにアメリカ政府は、それが事実でないことを知っていた②。(改行)「国民にさえも毒ガスを使う独裁者」という非難を、積極的に紹介したのが新聞・テレビなどのマス-コミなら、その時すでに政府が知っていたことを指摘したのもマス-コミであった。しかし、それはかなり後のことであった③。(改行)一方日本の出版状況をみてみると、マス-コミの中でも、少年向けだけでなく、おとな向けのコミック誌も増えている。しかも、娯楽だけでなく、社会的問題をとりあげることも少なくない。このように、情報の伝達は多様化してきている、といえよう。」

右本文記述の趣旨を見ると、素材として、(1) 昭和天皇逝去の際に、いわゆるマスコミが一斉に特別態勢をとったために読者又は視聴者に顕著な影響を与えたという事柄、(2) 一九九一年の湾岸戦争の際にイラクのみならずアメリカも徹底した情報コントロールを行ったという事実とその例示としてのクルド族の反乱鎮圧にイラクが毒ガスを使用したとの報道に関する問題、(3) コミック誌等が増加している現代日本の出版の傾向という三つの事柄を取り上げ、現在のマスコミに関する問題を考えさせようとするものであると認められる。

二  「考えてみよう1」の「特別番組を三日間つづける予定だったのを、途中で二日間に変更した」という記述部分は事実に反するから、素材として適切ではなく、修正の必要がある。」という検定意見の適法性について

1 検定意見における当てはめ判定

前記「指摘事項一覧表」の記載、右の検定意見の内容、通知に際しての入江調査官の前記認定の発言を総合すれば、右検定意見は、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」の「(3) 話題や題材の選択及び扱いは特定の事象、事項、分野などに偏ることなく、全体として調和がとれていること。」「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に該当するものとして通知されたと認められ、右のような理解は、検定基準の「選択・扱い及び組織・分量」の細項目の内容を理解している被通知者には容易にできたと推認することができる。

2 設問記述の趣旨

そこで、「考えてみよう1」の設問内容について検討するに、右本文の記載に照らせば、「1、昭和天皇死去の時、特別番組を三日間つづける予定だったのを、途中で二日間に変更したという。なぜそうしたのだろうか。」という設問は、本文中の「一九八九(昭和六四)年一月七日の朝、昭和天皇の死去が発表されると、新聞や放送は特別態勢に入り、テレビは特別番組を次つぎと放送した。テレビ局には、視聴者からの電話が殺到し、次第に抗議の電話が増え、街のレンタル-ビデオ店は数日間大繁盛だったという。また、教育テレビはいつになく視聴率があがった。」という記述に関連するものと一応理解することができるところ、右の本文記述と「考えてみよう1」の設問記述とを対比してみれば、右設問の趣旨は、テレビ局に対する視聴者の抗議の電話が増加した事実を掲げた上、当初三日間の予定であった特別番組が途中で二日間に変更したといわれているがその理由は何だろうかと問いかけるものであるから、視聴者の抗議の増加が特別番組の予定変更の主たる原因であったということを考えさせようという設問であると理解することができる。

3 検定意見の指摘

これに対する前記検定意見は、「右の特別番組が三日間の予定を二日間に変更したというのは事実に反し、素材として不適切である。」というものであるから、その検定意見の適否についての判断のためには、(1) テレビ局において当初三日間の特別番組放映の予定があったといえるか、(2) 特別番組に対する抗議の電話により、右の予定が変更されて二日間の番組となったといえるか、の各点について認定する必要がある。

4 テレビ局の特別番組の予定について

(一) 特別編成の予定又は計画に関する報道

(1) そこで検討するに、甲五の一の五と弁論の全趣旨によれば、昭和六三年一〇月一四日付け朝日ジャーナル本誌取材班「よみがえる「神格化」の回路」は、昭和天皇逝去の約三か月以前の記事であるが、在京の民放キーテレビ局(以下「民放テレビ局」という。)五社は、すでに昭和五六年一〇月ごろの編成局長会において昭和天皇逝去の際には最短二四時間から最長四八時間までの時間枠でCMの挿入がない特別番組を編成するという申し合わせをしていたが、昭和天皇の病状急変が伝えられた直後の昭和六三年九月二二日の右編成局長会において右の申し合わせを変更し、前記特別番組の時間枠を「崩御の発表が午後七時以前の場合、翌日の放送終了までCMのない特別編成を組む。午後七時以後の場合、翌々日の放送終了までとする。放送終了は最大午前五時五九分五九秒までとし、特別編成時間が終了したら例外なくCMを入れることとする」という内容の申し合わせとなっていたことを報じていることが認められる。また、甲五の一の一〇によれば、昭和天皇の逝去後に刊行されたと認められる雑誌「新放送文化」一九八九年一三号の岩切保人「臨時特別編成はどう実施されたのか?」の記事も、昭和五九年において前記民法テレビ局五社の編成局長会は天皇崩御から始まる民放テレビの臨時特別編成はおおよそ二日間とすることで原則的な合意をしており、昭和六三年九月一九日の昭和天皇病状急変の後の編成部長会では、崩御の発表が午後七時以前の場合は、翌日の放送終了までとし、午後七時を過ぎて発表があったときは翌々日の放送終了までとすることを決めていたと報じていることが認められる。

したがって、これらの雑誌の記事によれば、民放のテレビ局五社は、昭和天皇崩御の約三か月前に、崩御の後の特別番組を概ね二日間と予定していたと認められる。

(2) 一方、NHKについてみると、前記甲五の一の五の朝日ジャーナルの記事は、三か月以上も前に「NHKは「七二時間態勢」を取ることが決まっている。日替わりのテーマが用意され、一日目は「陛下をしのぶ」、二日目が「さようなら昭和」、三日目が「新時代展望」というそれぞれのテーマに基づいた番組がいつでも出せる状態にある。」と報じ、その三日間の番組内容を「『NHKの「Xデー以後」用の番組編成案(本誌入手の内部資料)」として掲載していたことが認められ、また、前記甲五の一の一〇によれば、事後に刊行された前記雑誌「新放送文化」同号の大森幸男「放送は、二日間の「服喪」で何を学んだか」も、「伝えられるところでは、NHKは当初三日間の予定だった特別編成計画を民放なみの二日間に縮め、また街頭にカメラやマイクをさかんに出して人びとの表情や声を拾うことに意を用いたという。」という観測記事を掲載していることが認められる。しかし一方では、甲五の一の二によれば、逝去直後である平成元年一月一〇日(以下、「第六」中の日付け記載においては「平成元年」を省略する。)付け朝日新聞夕刊のコラム「メディアインサイド」には「NHKは特別編成時間枠(教育テレビ、衛星第一、ラジオ第二を除く)を「崩御の発表から一時間以内に決定する」(NHK首脳)としていた。ところが、実際に決定を公表したのは発表から八時間近くたった七日午後三時四〇分、という慎重さだった。深刻なご病状が続き、「過剰報道」の批判が相次いだことから、昨年九月の御容体急変の時点でNHK内部で検討されていた「三日間程度の特別編成」は「二日間」に縮小された。このため、追悼番組も前倒しの形となったほか、八日の放送では、街角から市民の声を数多く生中継した民放に近い形で、生放送を予定より増やした。」との報道記事を掲載していることが認められ、NHKにおいても天皇逝去の直前には三日間の特別編成の当初予定を修正していたことを窺わせる報道をしているが、その間の事情に関するものとしては、雑誌「新聞研究」一九八九年五月号の担当記者座談会「天皇報道を振り返る」の記事(甲五の一の七)がある。すなわち、右甲五の一の七によれば、昭和六三年九月の天皇の病状急変に際しては各新聞社とも大規模な「Xデー」の紙面計画を立てていたが、病状の長期化に伴って「落ち着き」を取り戻し、予定稿の取扱いも縮小していった経緯が事後の記者座談会の話題となっており、当時のNHKの橋本大二郎記者も、「病状の長期化による変化」に関する話題として、病状報道において同じ原稿によるテレビ放送を連日深夜午前零時に行うという取扱いを中止したこと、その後も現場担当者が二重橋の写真のみを放映する処置を取りやめようとの意見を出すようになったことを紹介した上、「Xデーそのものの放送については、先ほど当日の番組編成計画の準備をどうするか、という話をしましたが、NHKとしては二日間は特別番組をやるけれども、三日目は世間の流れを見て決めようという方針があったんです。もっとも、当日が土曜日ではなく別の曜日だったり、また亡くなったのが午後か夜だったら対応が違ったと思いますが、基本的には三日が二日になったというのが一番大きな変化だと思います。」と述べていることが認められる。また、前記甲五の一の一〇の「新放送文化」の岩切保人「臨時特別編成はどう実施されたのか?」には、「NHKの場合は、当初、七二時間の特別編成が検討されていた。大正が終わった時に、当時唯一の電波メディアだったラジオが、一週間にわたって一切の音曲を中止したことや、昭和三八年のケネディ大統領暗殺時に、アメリカのテレビが四日間にわたってCMを自粛したことなどが参考になっていたのは間違いない。しかし、昨年九月一九日から始まった天皇報道の一一一日間は、あまりに長かった。その間のマスコミの天皇報道は過剰とも思われたし、放送、芸能界には自粛ムードがあふれていた。そのうち、そうした過剰報道や自粛に対する批判が相次いだ。七二時間説を否定する編成幹部は、『その時点での国民感情を踏まえながら、期間をどのくらいにするか判断したい』と語っていたが、それが二日間の臨時特別編成になった、といっていい。もちろん、天皇崩御後、政府が、『国や地方公共団体を含む官公庁については、七日から一二日までの六日間、民間企業や一般国民については、七、八の二日間、それぞれ喪に服し、弔旗を掲げて哀悼の意を表するように』と要請したことと無縁ではない。臨時特別編成案は、『天皇崩御の発表時点から考えた』(堀井副総局長)と言うように、NHKの対応は実にしぶとい。」との観測を記載していることが認められる。

これらの報道記事を総合すると、NHKにおいては、昭和六三年九月ごろには三日間の特別編成番組とする計画があったが、病状の長期化に伴い、三日目の番組は「世間の流れを見て」又は「国民感情を踏まえながら」決定するという方針に変わっていたと推認されるのである。

(二) 特別編成の実施に対する新聞報道

(1) また、天皇逝去直後の新聞の報道記事によっても、右の各認定はこれを裏付けることができる。すなわち、乙五の一の三によれば、天皇崩御当日の一月七日の読売新聞夕刊には「各局ともCMは中止、天皇関係の記録フィルムを織り込みながら、宮中や内閣の動きを中心にした放送一色に。民放各局のこの体制は、九日午前六時まで二十四時間体制で続く。NHKは同九時三十分から池田芳蔵会長が「陛下ご逝去」の告知放送を行い、特別体制へ。NHKの場合は、この体制をいつまで続けるかは未定」という記事が掲載されていることが認められるが、これは、前述の民法テレビ局とNHKの特別編成に関する方針の内容と、これらが予定どおり実施されていたことを裏付けるものである。更に、乙五の一の一によれば、一月七日付け朝日新聞夕刊の「各界の対応」と題する表には「NHKは八日放送終了まで特別編成番組。民放はおおむね九日午前六時ごろまでCM抜きの特別番組」との記事の掲載が認められるが、NHKについては、前記のとおり、逝去当日の午後三時四〇分ころには二日間とする決定があったと報じられていたというのであるから、「NHKは八日放送終了まで特別編成番組」という記事は、右の決定に接した後の記事であると推認され、民放テレビ局については、前記認定の申し合わせのとおり、翌日の放送終了(一月九日午前六時前まで)までとする前記申し合わせの趣旨に従っていたことを示すものであると認められる。また、甲五の一の一によれば、一月八日の朝日新聞朝刊には、NHKの特別番組は一月八日の放送終了(一月九日午前零時三四分)まで行われる予定であることが報じられていたと認められる。

(2) これらの事実に甲五の一の六の三ないし一五、甲五の一の七、甲五の一の九、甲五の一の一〇を総合すると、結局、民放テレビ局各社においては、従前から天皇崩御後の特別番組を概ね二日間とする旨の申し合わせを有しており、NHKのみは独自に特別番組の計画を立て、大量の報道用の素材を準備し、外国の元首逝去報道の例をも検討して一時は特別番組を三日間とする編成計画を立てていたところ、昭和天皇の病状が急変した直後ころの民放テレビ局の編成部長会においては、具体的な特別番組の編成方針を「崩御の発表が午後七時の前であれば翌日の放送終了(午前六時の直前)まで、右発表が午後七時以降であれば、翌々日の放送終了(同前)まで」とする旨の申し合わせを行い、その後、天皇の病状が長期化するに伴ってマスコミ各社の冷静な報道姿勢が支配的となり、NHKにおいても、当初の三日間の特別番組の編成方針を原則二日間としつつ三日目は世間の動向あるいは国民感情を考慮して決定するという方針に変更していたこと、昭和六四年一月七日午前七時五五分ごろ昭和天皇の逝去が発表されたが、民放テレビ局各社は従前の申し合わせのとおり翌日(八日)の放送終了(九日午前六時前)まで特別番組を編成し、NHKも変更された方針に従い、逝去当日に最終的に特別番組を八日の放送終了(九日午前零時三四分)までとする旨決定し、これを当日午後三時四〇分ごろ公表したことを認めることができる。

(三) 以上によれば、民放のテレビ局においては特別番組を三日間続ける予定を有していた事実はなく、NHKにおいても、当初は三日間の特別番組の編成計画を有していたが、その後天皇逝去の前に原則二日間としつつ三日目は世間の動向等をみて決定するという方針に変更していたと認められる。そうすると、少なくとも民放のテレビ局において当初三日間の特別編成の予定があったというのは明らかに誤りであったというほかはなく、NHKについても三日目の予定は未確定とするものであったから、確定的に三日間の特別編成計画があったとはいえないというべきである。したがって、前記の(1) テレビ局において当初三日間の特別番組放映の予定があったといえるか、の点については、NHKについては未確定の部分が残るものの、全体としては、概ねそのような事実はなかったと判断するのが相当である。

5 視聴者の抗議の電話による影響

以上のとおり、NHKについては未確定の部分が残るために、進んで、前記(2)の特別番組に対する抗議の電話により三日間の予定が変更されて二日間に短縮された事実があるか、という点について検討する。

(一) 民放テレビ局各社の場合

民放テレビ各社においては、前述のとおりもともと三日間の特別編成の予定がなかったのであるから、これを変更するという余地がないことは明らかである。前述の崩御当日の朝日新聞と読売新聞の各夕刊には、いずれも「民放はおおむね九日午前六時ごろまでCM抜きの特別番組」と報じられていたのであるから、民放テレビ局においては前記認定の申し合わせのとおりの特別編成方針が実行されたと認められるのであり、何らかの影響等を受けて変更された事実を認めることはできない。

(二) NHKの場合

NHKについてみると、前記認定の事実によれば、NHKの事前の特別編成方針は、二日間を原則とし三日目は世論等の動向をみて決定するというのであるから、その限りでは三日間とする特別編成方針が確定的に存在していたのではなく、それが変更されて二日間に短縮されたとは必ずしもいえないと考えられるが、右のような特別編成の方針においてはなお三日間とする余地があったことも否めず、前記のとおり、崩御当日の七日午後三時四〇分ころに初めて二日間とする旨の決定の公表があったというのであるから、なおその間に視聴者からの抗議電話の増加が影響を及ぼしたと認定する余地が残り、そのことはこの点に関する検定意見の適否ないし違法適法の判定に無関係ではないと考えられるので、その間の視聴者の抗議の電話の影響の点について検討することとする。

(1) まず、どの程度の電話があったかについてみると、甲五の一の一によれば、崩御の翌日の一月八日朝日新聞朝刊には「NHKには、七日朝から午後四時までに全国で約七千二百八十件の電話が殺到、職員らが対応に追われた。このうち八割は連続ドラマやスポーツ番組がいつ放送されるかなど、番組変更の問い合わせだったが、「天皇報道はやりすぎだ」「もうやめてほしい」などの意見も多く、NHK側は「天皇陛下は国民の象徴であり、それなりの放送をしている」と繰り返し、理解を求めた。」という報道記事があることが認められ、甲五の一の六の四によれば、同日の毎日新聞の朝刊には「NHKでも七日午後八時までに全国の放送局に計約一万百本の電話が集中。うち八割は「春日局」「純ちゃんの応援歌」などのレギュラー番組やラグビー選手権などのスポーツ番組についての問い合わせ電話で、残りの二割は「天気予報を定刻にやって欲しい」「レギュラー番組を放送すべき」など放送の内容についての意見、批判電話だったという。」との記事の掲載があったことが認められ、甲五の一の六の八によれば、同日の日本経済新聞朝刊には「七日朝から天皇陛下崩御特別編成番組を組んだNHKと民放テレビ各局には通常の三、四倍の電話があり、そのほとんどが中止された番組への問い合わせや、番組変更への抗議、過剰報道にならないようにとの要望だった。NHKには七日午後四時までに、全国で七千三百本近い電話がかかったが、うち八〇%が番組変更に関する問い合わせで、残る二〇%が特別放送への批判や元号についての意見など、放送内容に関するものだったという。」という記事の掲載が認められ、乙五の一の四によれば、同日の読売新聞朝刊にも「『天皇陛下の崩御』報道一色になった各テレビ局に対して、七日、視聴者からの電話が殺到した。中でもNHKへの電話は、同日午後四時現在、全国で七千三百件に達した。番組変更についての問い合わせが八割を占め、残りは放送内容に対する意見。この中には、『崩御関連の放送をいつまでやるつもりなのか』と批判的な声もあった。」との記事の掲載が認められる。

(2) 右の新聞記事によれば、NHKにおいては、七日午後四時までに特別編成に関して全国の視聴者から通常日の三、四倍に当たる約七千三百件もの電話があったが、その八割は問い合わせであり、二割が批判意見を含む苦情であったと認めるのが相当であるが、右の苦情電話がNHKの特別編成を八日の放送終了までとするとの決定にはたして影響を与えたといえるかについては、これを認めるべき確たる証拠はないというべきである。すなわち、前記認定のNHKの事前方針は、三日目については「世間の流れを見て」又は「国民感情を踏まえながら」決定するというものであったから、当然右の二割の批判ないし苦情の電話は、「世間の流れ」や「国民感情」を踏まえるに当たって一応考慮の対象になったと推認する余地があるが、他方で、前記一月八日朝日新聞朝刊の記事は、「天皇報道はやりすぎだ」「もうやめてほしい」などの批判的な苦情電話に対して「NHK側は『天皇陛下は国民の象徴であり、それなりの放送をしている』と繰り返し、理解を求めた。」と報道されているように、NHKは七日においては二割の苦情電話に対して理解を求めるべく説得していたと推認されるのであり、そうだとすれば、NHKが特別編成期間を二日間とするに当たり、二割の苦情電話を主要な動機としてこれを最終的に決定をしたとは考えにくい。現に、前記の「新放送文化」岩切保人「臨時特別編成はどう実施されたのか?」の記事中には、「NHKの場合は、当初、七二時間の特別編成が検討されていた。(中略)しかし、昨年九月一九日から始まった天皇報道の一一一日間は、あまりに長かった。その間のマスコミの天皇報道は過剰とも思われたし、放送、芸能界には自粛ムードがあふれていた。そのうち、そうした過剰報道や自粛に対する批判が相次いだ。七二時間説を否定する編成幹部は、『その時点での国民感情を踏まえながら、期間をどのくらいにするか判断したい』と語っていたが、それが二日間の臨時特別編成になった、といっていい。もちろん、天皇崩御後、政府が、『国や地方公共団体を含む官公庁については、七日から一二日までの六日間、民間企業や一般国民については、七、八の二日間、それぞれ喪に服し、弔旗を掲げて哀悼の意を表するように』と要請したことと無縁ではない。臨時特別編成案は、『天皇崩御の発表時点から考えた』(堀井副総局長)と言うように、NHKの対応は実にしぶとい。」という記事は、NHK側は二日間の特別編成は「天皇崩御の発表時から考えた」との見解が述べられていること(これを「実にしぶとい」としているが)を紹介しているから、このNHK側の見解によれば、当日の視聴者からの苦情の電話の影響力はなかったというものであると考えられるし、右の「新放送文化」の「臨時特別編成はどう実施されたのか?」の記事においても、むしろ昭和天皇の療養期間中における長期の報道自粛等に対する批判や崩御後に政府が一般国民の服喪を二日間として要請したことも、当然影響しているとの考えに立っているものと理解されるのである。

(三) これらの事実を総合勘案すると、NHKが七日の午後三時四〇分ごろに発表した特別番組を八日の放送終了までとする旨の決定については、マスコミ関係者の間には当日の苦情の電話の増加に対する配慮もあったであろうという憶測があったものと推認されるが、これを裏付ける確証はなく、裏付けとなる明確な事実関係としては、事前の長期報道におけるNHK自身の反省、政府の国民服喪を二日とする方針などが上げられていたにとどまると認めるのが相当であり、NHKにおける特別編成を二日間とする決定に対して当日の苦情の電話が影響を及ぼしたとまで認定するには足りない。

そうすると、前述のとおり、当日の苦情の電話により、三日間の特別番組放送の予定が途中で二日間に変更されたことを前提として記述されている「考えてみよう1」の設問は、NHKについても、事実と異なるか又は不正確な事実に基づく記述であったということができる。

6 検定意見に対する判断

(一) 以上のとおり、「考えてみよう1」の「昭和天皇死去の時、特別番組を三日間つづける予定だったのを、途中で二日間に変更したという。なぜそうしたのだろうか。」という設問の内、「特別番組を三日間続ける予定だったのを、途中で二日間に変更した」という部分は、民放テレビ局については事実に反することが明らかであり、NHKについても事実と異なるか又は不正確な事実に基づく推測であるということができる。

(二) そうすると、この点についての文部大臣の検定意見は、「考えてみよう1」の設問記述の内、「「特別番組を三日間つづける予定だったのを、途中で二日間に変更した」という記述部分は事実に反するから、素材として適切ではなく、修正の必要がある。」というものであり、これは、前述のとおり、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」の「(3) 話題や題材の選択及び扱いは特定の事象、事項、分野などに偏ることなく、全体として調和がとれていること。」「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に該当するというものであったから、文部大臣の右の判定は概ね相当であり、右の判定に看過し難い過誤があるとはいえない。したがって、「選択・扱い及び組織・分量」の細項目に抵触することを理由とする文部大臣の右検定意見の通知は、その裁量の範囲を逸脱したということはできず、これを違法ということはできない。また、慎重で抑制的かつ厳格な考慮と姿勢をとるべきという前述の制約に違反したということもできず、裁量権の濫用があったと認めることもできない。

三  「天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等には、その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても記載する必要があり、これらを取り上げれば、自ずと天皇制という大きな問題をも取り上げざるを得なくなり、その結果「現在のマス-コミと私たち」という「テーマ(6)」の主題が不明確なものとなるから、天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等は、素材及び取扱いとしては適切ではなく、見直しの必要がある。」という検定意見の適法性について

1 検定意見における当てはめ判定

前記「指摘事項一覧表」の記載、右の検定意見の内容、通知に際しての入江調査官の前記認定の発言を総合すれば、右検定意見は、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」の「(1) 図書の内容の選択及び扱いには、学習指導要領に示す目標、学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いに照らして不適切なところ、その他生徒が学習する上に支障を生ずるおそれのあるところはないこと。」、「(3) 話題や題材の選択及び扱いは特定の事象、事項、分野などに偏ることなく、全体として調和がとれていること。」、「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」、「(7) 全体として系統的・発展的に組織されており、学習指導要領に示す標準単位数の対応する授業時数並びに学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いに照らして、全体の分量及びその配分は適切であること。」に該当するものとして通知されたと認められ、右のような理解は、「選択・扱い及び組織・分量」の細項目の内容を理解している被通知者には容易であったと推認することができる。

2 原稿記述

この検定意見の対象となった「テーマ(6)」の記載は、前記本文中の「一九八九(昭和六四)年一月七日の朝、昭和天皇の死去が発表されると、新聞や放送は特別態勢に入り、テレビは特別番組を次つぎと放送した。テレビ局には、視聴者からの電話が殺到し、次第に抗議の電話が増え、街のレンタル-ビデオ店は数日間、大繁盛だったという。また、教育テレビはいつになく視聴率があがった。」という部分と、その頁の後半に掲げられた「平成元年最初の日のテレビ番組」の表題の、末尾に「(『S新聞』1989年1月8日付より)」との説明が付されたある新聞のテレビ番組欄の抜粋部分の掲載(別紙参照)であると認められる。

右の本文記述とテレビ番組欄の抜粋部分とに基づいて、この点に関する検定意見の適否を判断するには、(1) その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても記載しなければ、検定基準に抵触することとなるか、(2) 右の記載をすることにより、天皇制に関する問題を取り上げることとなるか、(3) その結果、「テーマ(6)」の「現在のマス-コミと私たち」という主題が不明確なものとなり、検定基準に反することとなるか、について検討する必要があると考えられる。

3 追悼の意等を記載しなければ検定基準に触れるか。

まず、右の(1) その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても記載しなければ、検定基準に触れることとなるか、について検討する。

(一) 前記本文記述とテレビ番組欄の転載部分を検討するに、これらの記載等は、昭和天皇の逝去が発表された昭和六四年一月七日の朝以降、新聞や放送が特別態勢に入り、テレビ番組は特別編成となって専ら特別番組のみを放送したため、視聴者からの電話が殺到し、次第に抗議の電話が増えたほか、街のレンタル-ビデオ店は数日間大繁盛となり、特別番組を放映しなかった教育テレビはいつになく視聴率が上がったということを、その例証となるテレビ番組欄を抜粋して掲載した上、「現在のマス-コミと私たち」というテーマの素材としたものと理解される。

原告本人と弁論の全趣旨によれば、この素材を取り上げた原告の問題意識は、要するに、今日の高度情報メディア社会においては、大量の情報の収集、管理、操作が政府やマス-メディアに集中する情報の寡占化が進んでおり、個人は自由に情報を得たり伝達することができなくなり、一方的に情報の受け手とならざるを得ないところ、これに押し流されないように情報を主体的に取捨選択するような判断力、理解力をつけるにはどうすれば良いか、受け手としてマス-メディアに対するアクセスが必要ではないかなどという問題を考えさせることが重要であり、特に天皇逝去報道においては、画一化した過剰報道に危険性があることは多くの論者から指摘のあるところであって、国民自身がアクセスして意見を述べることの重要性が理解されやすい問題であるから、「広い視野に立って、現代社会と人間についての理解を深めさせ、現代社会の基本的な問題に対する判断力の基礎を培い、情報化社会など現代社会の特質を理解させる」とする学習指導要領の観点からみても、適切かつ良好な素材であるというものであると認められる。

(二)(1) そこで検討するに、まず前記認定によれば、昭和天皇の逝去の際に新聞や放送がとった特別編成方針は、その際に急遽取られたものではなく、民放テレビ局各社においては、昭和五六年ごろから最大二日間の特別番組を組むという申し合わせがあった上、NHKにおいても、大正天皇の逝去の際の前例、アメリカ合衆国大統領が死去した際の例などを検討して、当初三日間の特別編成の計画を立てるなどの準備をしていた結果実行されたものであったことが認められ、前記認定事実と本件全証拠によるも、その過程に「画一化した過剰な報道」を企図した動きがあったとまでは認めることはできない。むしろ、特別編成計画立案の後の長期化した準備期間においては、新聞や放送の関係者自身に生まれた反省などにより計画の「冷静化」又は縮小化などの動きがあったことが認められるが、このことは、むしろ、昭和天皇の逝去報道において現実に取られた特別編成計画は、「画一化した過剰な報道」に対する行きすぎを自制する考えの中で実行されたことを示すものともいうことができる。

(2) また、概ね二日間の特別編成番組の放送に携わった関係者側の意識をみるに、前記甲五の一の七によれば、前記「新聞研究」の座談会記事「天皇報道を振り返る」においては、マスコミ各社は長期に亘って大量の人員と多額の資金を投入して昭和天皇の病状を報道し続けていたこと、年齢の若い記者には、昭和が終わる歴史的な瞬間を自分の目で確かめたいという気持ちから「苦しかったけれども、現場を離れたくなかった」と述懐する者もいたことなどが紹介されていることが認められ、甲五の一の九によれば、日本放送協会編「昭和放送史」の橋本大二郎「テレビは昭和の終わりをどう伝えたか」には、昭和六三年一〇月初旬からの昭和天皇の病状と逝去の前後ころまでの経緯をNHK担当記者が「昭和の終わり」という観点で取材していた事実が記述されており、乙五の一の九によれば、「グラフNHK一九八九年二月号」の冒頭には「昭和六四年一月七日午前六時三三分天皇陛下がお亡くなりになりました。NHKでは天皇崩御をただちに臨時ニュースで放送するとともに、同日午前一〇時、NHKの池田芳藏会長があいさつのあと特別番組を編成するとの放送を行いました。」との前文に続いて、「皆様ニュースですでにご存知のとおり、天皇陛下が本日午前六時三三分崩御あらせられました。日本の象徴であられた天皇陛下の崩御に、謹んで哀悼の気持を述べさせていただきたいと存じます。天皇陛下の八七年のご生涯は、そのまま近代日本の激動の歴史でありました。中でも陛下がご在位になった昭和の時代は、国民にとっても大きな戦争の苦難を経て平和と繁栄への道を歩んだまさに波乱の時代でありました。私どもは、亡くなられた陛下のお人柄を偲び、“昭和”という時代にあらためて思いをいたし、通常の番組編成を変更し、特別番組を放送いたします。」という「会長あいさつ」を掲載していることが認められる。これらの事実によれば、昭和天皇の病状報道から逝去に関する特別報道の態勢は、概ね昭和の終わりという近代日本の歴史的な意味合いを持つ出来事であるとの観点で報道が行われていたと推認することができるというべきである。

(3) 次に、昭和天皇の逝去に対する国民側の受け取め方についてみると、例えば、甲五の一の六の六、甲五の一の六の八ないし一〇、甲五の一の六の一二、甲五の一の六の一三、甲五の一の六の二一、乙五の一の一、乙五の一の三、乙五の一の五、乙五の一の六の六によれば、逝去当日の七日朝日新聞夕刊は「『その時』思いさまざま」「首都で」「列島で」「弔問の人波続く皇居前」との見出しで天皇逝去に対する人々の反応に関する記事を掲載し、同日の読売新聞夕刊は「『昭和終章』悲しみの日本」「街頭に職場に家庭に衝撃」「二重橋前、泣き伏す人々」として人々の反応を報道するほか、「陛下の思い出いつまでも」として一〇名の著名人の回顧談を掲載し、同日の毎日新聞夕刊は「昭和から平成へ深い思い」「その時―各地の表情」との見出しで人々の反応を掲載し、同日の日本経済新聞夕刊は「それぞれの昭和に別れ」「一斉に服喪・弔意」「百貨店半旗掲げ営業」「大相撲順延、九日開幕」「自主休園の遊園地も」「競馬など六日間中止」の見出しで人々と各界の反店を報じたほか、「回想 素顔の陛下」との見出しで六人の著名人の談話を掲載し、一月八日の日本経済新聞朝刊は「昭和の最後静まる夜」「皇居、弔問切れ目なく 盛り場ネオン消し哀悼」「六本木ディスコ自粛浅草商売さっぱり」という見出しの記事を掲げ、一月九日の毎日新聞朝刊には「哀悼の人波」「雨の中、記帳に三五万人」という見出しで人々の行動を報じ、同日の読売新聞夕刊には「私がお会いした昭和天皇」との見出しで数人の著名人の回顧談を掲載し、同日の日本経済新聞夕刊には「黙とうで始業式」の見出しの記事があり、毎日新聞は一月八日から朝刊で「昭和がゆく」という連載記事を掲載したほか、一月一四日の朝刊からは「昭和天皇とその時代」という連載記事を掲載し、二月二五日の日本経済新聞朝刊は、大喪の礼の翌日「哀調の誄歌最後のお別れ」「武蔵野の杉林深く 皇族方白木の鍬で『お土かけ』」という見出し記事を掲載していることがそれぞれ認められる。

これらの新聞記事によれば、その当時、昭和天皇の逝去に対して、多くの国民の間で哀悼の気持ちが存在していたものと認められ、右の新聞記事の掲載の状況は、当時の国民の一般的な気持ち又は考え方を窺わせるものであると推認することができる。

(4) 更に、天皇逝去に伴う前記認定のテレビの特別番組に対する視聴率をみてみると、前記甲五の一の九の橋本大二郎「テレビは昭和の終わりをどう伝えたか」は、一月七日の崩御の発表直後の午前八時から一時間のNHK総合テレビ視聴率は40.2パーセント、全テレビの視聴率は六四パーセント余であったと伝え、前記甲五の一の六の一五の朝日新聞一月一一日夕刊のコラム「メディアインサイド」は、総世帯のテレビ視聴率について、七日の全日が53.2パーセント、ゴールデンタイム(午後七時から午後一〇時まで)が65.6パーセント、プライムタイム(午後七時から午後一一時まで)が63.4パーセントであり、八日は全日が49.4パーセント、ゴールデンタイムが63.8パーセント、プライムタイムが62.6パーセントであったとし、前四週間の同じ曜日の平均視聴率は七日に相当する曜日(土曜日)が、全日46.5パーセント、ゴールデンタイム71.9パーセント、プライムタイム70.3パーセントであり、八日に相当する曜日(日曜日)は全日49.0パーセント、ゴールデンタイム71.1パーセント、プライムタイム68.2パーセントであって、調査した「ビデオ・リサーチ社」は特別編成が取られた七日と八日のテレビ視聴率は「『意外に低かった』と見ている」と伝えていることが認められる。確かに、右の視聴率の数値を見ると、前四週間の同じ曜日の平均視聴率との比較では、七日、八日とも全日で上回ったのみで、ゴールデンタイムとプライムタさイムでは七日と八日のいずれも下回っていることが認められるが、もともと前四週間の平均視聴率とは、NHKと民放テレビ局五社のさまざまな番組に対する視聴率の総和であるのに対して、七日と八日の視聴率は、前記認定のとおり、一斉に放送された特別編成による同種の天皇逝去関連の番組のみに対するものであったということができる。そうすると、仮に天皇崩御特別番組を一種類の番組と考えるとすれば、前記の視聴率はやはり高いものであったというべきである(前四週間の各平均視聴率をNHKを含めたテレビ局の数の六で除してみると、前四週間の一局当たりの平均視聴率は、全日は八パーセント前後、ゴールデンタイムとプライムタイムともに約一一パーセント前後の数値にしかならない。)。すなわち、天皇逝去関連のテレビ特別番組は、やはり高い視聴率を有していたと考えるのが相当であり、公表されたテレビの視聴率の数値のみを根拠として、右特別番組に対する視聴者の関心が高くなかったと考えることはできない。

(三) 以上の認定によれば、マスコミ関係者は、昭和天皇の逝去が単に人々の哀悼の対象となるだけでなく、現代日本にとって大きな意味を有する社会的事象であるとの認識でその報道に努めていたと認められ、そのようなマスコミ関係者の認識はある程度国民一般の認識とも一致するところがあったと推認される。また、そのために、テレビの特別番組を含めて、昭和天皇逝去に関するマスコミ報道に対しては、国民から高い関心が寄せられていたと認めるのが相当である。

そうだとすると、もともと昭和天皇の逝去は、そのこと自体の性質として、社会的又は歴史的な意味において広がりと深さを有するものであったと認められ、国民の高い関心の対象となったことは自然の推移であり、従ってこれを報道するマスコミ関係者の姿勢あるいは取組みが特別なものとなっていったことも、無理からぬものがあったと考えられるのである。

もっとも、昭和天皇の逝去に対するマスコミ関係者の右のような特別な姿勢ないし取組みに対しては、一定の批判と反省があったことも事実である。すなわち、前記甲五の一の五によれば、前記「朝日ジャーナル」の「よみがえる「神格化」の回路」の記事は、天皇の病状報道の段階からテレビのCMの自粛等の報道姿勢に批判的な意見を述べていたと認められるし、甲五の一の七によれば、前記「新聞研究」の「天皇報道を振り返る」の座談会記事においては、病状の長期化に伴い報道関係者に過剰報道に亘ることのないようにとの反省が生まれたことが語られている(なお、総括的には自然体で取り組まれ、大きな逸脱はなかったとも述べらている。)と認められ、甲五の一の八、甲五の一の一〇、一一によれば、前記「新聞研究」の篠原一「新聞の社会的機能とはなにか」、前記「新放送文化」岩切保人「臨時特別編成はどう実施されたか」と大森幸男「放送は、2日間の「服喪」で何を学んだか」のほか、門奈直樹「ジャーナリズムの現在」(日本評論社)の「第一四章天皇死去報道の思想」も、それぞれの観点からマスコミの特別報道の姿勢を批判的に論ずるものであると認めることができる。また、国民又は視聴者からの反応については、前記認定のとおり、NHKのテレビの特別編成に対しては七日午後四時までに約七三〇〇件の約二割が批判的な意見であったし、甲五の一の二によれば、一月一〇日の朝日新聞朝刊の「メディアインサイド」は「この間、八日までにテレビ各局にかかってきた電話は、NHKが全国で一万八千百本、日本テレビ千六百三十本、TBS二千四百二十本、フジテレビ千三百七十本、テレビ朝日千四百九十本、テレビ東京四百二十本。全体の半数余りは番組変更などに関する問い合わせだったが、残る半数の多くは批判的な内容だった。」と報じていることが認められ、甲五の一の六の四によれば、一月八日の毎日新聞朝刊には「TV局に苦情殺到」の見出しの下に「各テレビ局には視聴者から「他の番組も放送すべき」「天皇報道一辺倒はおかしい」等の批判や「レギュラー番組はどうなったのか」という問い合わせの電話が相次いだ。」との記事が掲載されたこと、甲五の一の六の五によれば、一月九日の毎日新聞朝刊には「TV局に批判電話続く」との見出しで視聴者から「世界や世の中の動きがよくわからない」「二日間も情報途絶状態だ」という厳しい声が寄せられたことを報じているとそれぞれ認められ、また、甲五の一の三によれば、二月八日の朝日新聞朝刊には、全国三〇〇〇人を対象として行った約四か月間の天皇の病状と逝去に関するマスコミ報道に対する世論調査の結果が掲載されたところ、これによると、「マスコミの騒ぎ過ぎ」が五七パーセント、「国民感情の自然な表れ」が二八パーセント、「戦前に戻ったようで不安」が五パーセント、「厳粛さが欠けている」が三パーセントであったことが認められるから、四か月間が経過した後には、マスコミ報道が過剰であったと冷静に判断する国民も少なくなかったことが認められる。

しかしながら、これらの批判的意見ないし反省の意見が存在したことは、昭和天皇の逝去に関する前述の社会的又は歴史的の意味の大きさないし広がり自体を否定する心のとは必ずしもいえないと考えられる。むしろ、各批判の観点に鑑みると、その逝去の意味が大きいからこそ、批判の観点が必要であるという動機を読み取ることも可能であるのであり、これらの批判ないし反省の見解にもかかわらず、又はこれらの観点をも含めて、総体として昭和天皇の逝去の社会的又は歴史的意味には大きな広がりと深さがあったと認めるのが相当である。

(四)(1) ところで、原告執筆に係る「テーマ(6)」の天皇逝去報道に関する本文記述とテレビ番組欄の抜粋部分は、前記認定のとおり、高度情報メディア社会における情報の寡占化、個人の情報手段からの隔絶化あるいは疎外化、あるいは個人の主体的な情報の取捨選択に対する判断力、理解力の涵養の必要、又はマス-メディアに対するアクセスの必要に関する問題意識の下に、特に天皇逝去報道においては画一化した過剰報道の危険性があるという認識に基づいて執筆されたものと認められるが、前記問題意識の下での原告の執筆の観点は、昭和天皇の逝去の持つ意味の広がり等との関連、右の意味を意識して行われたマスコミ関係者の特別報道への取組姿勢との関連を特に意識しないまま、形成されたものと解される。

(2) なお、原告は、この点に関して、マスコミの哀悼の意は高校生には新聞のテレビ欄の抜粋転載部分の比重が大きいことからも容易に分かるはずであると主張するが、原告の前記認定の執筆意図からすれば、右抜粋部分はむしろ「過剰報道」の事実を直接的に示すという狙いをもっていたものと推認され、この抜粋転載部分を周囲の記述の中において客観的に見ても、右認定の天皇逝去の社会的又は歴史的意味の大きさと広がりが容易に判明するとは言い難い。したがって、なお、天皇逝去の全体的な意味の把握を意識しないまま記述されたという性質は変わらないといわざるを得ない。また、原告は、検定意見のとおり、視聴者の反応等を取り上げることは、かえって教室での生徒の議論の余地を奪うと主張するが、右主張の趣旨に立ってみても、教科書の記述に欠陥があっても良いとすることにはならない筈であるから、にわかに採用することはできない。

(3) この点に対する前記検定意見が当てはめた検定基準は、前述のとおり、「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」の「(1) 図書の内容の選択及び扱いには、学習指導要領に示す目標、学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いに照らして不適切なところ、その他生徒が学習する上に支障を生ずるおそれのあるところはないこと。」、「(3) 話題や題材の選択及び扱いは特定の事象、事項、分野などに偏ることなく、全体として調和がとれていること。」、「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」、「(7) 全体として系統的・発展的に組織されており、学習指導要領に示す標準単位数の対応する授業時数並びに学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いに照らして、全体の分量及びその配分は適切であること。」に該当するというものであるが、学習指導要領に示す目標は、「人間の尊重と科学的な探究の精神に基づいて、広い視野に立って、現代の社会と人間についての理解を深めさせ、現代社会の基本的な問題に対する判断力の基礎を培うとともに自ら人間としての在り方生き方について考える力を養い、良識ある公民として必要な能力と態度を育てる。」というものであり、学習指導要領に示す内容の取扱いには、「(1)」「イ 社会的事象は相互に関連し合っていることに留意し、できるだけ総合的な視点から理解させ考えさせるとともに、生徒が主体的に自己の生き方にかかわって考えるよう学習指導の展開を工夫すること。」、「エ 的確な資料に基づいて、社会的事象に対する客観的かつ公正なものの見方や考え方を育成するとともに、学び方の習得を図ること。」というものが含まれているから、前述の認定による天皇逝去報道に関する記述は、右の各検定基準に触れると判定する根拠は不十分とは言えないと考えられる。

(4) したがって、文部大臣のこの点に関する検定意見の前段「天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等には、その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても記載する必要があ」るという意見部分は、右認定の昭和天皇の逝去の意味の広がりとこれを特別編成により報じたマスコミ関係者の取組みの意味を全体的に捉えて記述する等の必要があるという趣旨であると解することができるから、右の検定基準の示す項目の趣旨に照らして、概ね相当な判定であって、看過し難い過誤があるとはいえず、文部大臣の右検定意見の通知に裁量権の範囲を逸脱した違法はないと認められる。

(五) 次に、文部大臣の右検定意見の後段部分「これらを取り上げれば、自ずと天皇制という大きな問題をも取り上げざるを得なくなり、その結果「現在のマス-コミと私たち」という「テーマ(6)」の主題が不明確なものとなるから、天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等は、素材及び取扱いとしては適切ではなく、見直しの必要がある。」という意見部分について検討する。

(1) 前述のとおり、昭和天皇の逝去の意味は、社会的歴史的な意味の大きさと広がりを有するものと認められ、右検定意見の前段意見が指示する「その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても記載する」とすれば、当然昭和天皇逝去の持つ社会的歴史的な意味の大きさと広がりをある程度捉える記述になるものと考えられる。そのような記述の中で、原告の執筆意図に従って、マスコミの特別編成による報道姿勢に関する問題を指摘することは、条理上必然的に現行憲法の下での天皇制あるいはその戦前戦後の比較などに関する問題を意識させるものとなることは容易にこれを推認することができる。

(2) 更に、前記認定の天皇逝去報道上の問題を批判的に指摘する意見の中には、戦前の天皇制へ回帰を危惧するとの動機があると認められるものがあり(前記甲五の一の八の「新聞研究」篠原一「新聞の社会的機能とは何か」、甲五の一の一一の門奈直樹「ジャーナリズムの現在」(日本評論社)の「第一四章天皇死去報道の思想」等)、また、甲五の一の六の二〇によれば、一月二四日の毎日新聞夕刊は、「日本の天皇報道を批判」との見出しで「中国有力紙・光明日報は東京特派員電で、故天皇に戦争責任があることを指摘するとともに、日ごろ報道の自由を掲げ、個性の強い日本のマスコミが死去報道でまれにみる一律性を示し、天皇の戦争責任を覆い隠そうとする印象を与えていると批判した。」と報じていることが認められ、甲五の一の六の二一によれば、一月二六日の毎日新聞朝刊は、「英BBCも放映」という記事でイギリスBBCテレビなどが昭和天皇と戦争責任との関連を追及したドキュメンタリー番組を放映したことを報じていることが認められるのであり、これらの報道記事に鑑みると、「天皇制」等の問題はこれらの問題意識とも容易に関連し得る性質を有していると認めざるを得ない。

(3) このようにしてみると、昭和天皇逝去の持つ社会的かつ歴史的な意味の大きさあるいは天皇制又はその在り方に関する問題は、「テーマ(6)」の「現在のマス-コミと私たち」というテーマで取り扱うことが適切ではないという見解には、相当程度根拠があるというべきである。したがって、検定意見の後段部分「これらを取り上げれば、自ずと天皇制という大きな問題をも取り上げざるを得なくなり、その結果「現在のマス-コミと私たち」という「テーマ(6)」の主題が不明確なものとなるから、天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等は、素材及び取扱いとしては適切ではなく、見直しの必要がある。」という意見は、概ね相当であり、前述の検定意見が準拠した「選択・扱い及び組織・分量」の細項目に照らせば、右の検定意見の当てはめ判断は相当であると考えられ、看過し難い過誤があるとはいえず、そこに裁量権の範囲を逸脱した違法を認めることはできない。

4 まとめ

以上のとおりであり、「天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等には、その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても記載する必要があり、これらを取り上げれば、自ずと天皇制という大きな問題をも取り上げざるを得なくなり、その結果「現在のマス-コミと私たち」という「テーマ(6)」の主題が不明確なものとなるから、天皇逝去の際のマスコミ報道についての記述等は、素材及び取扱いとしては適切ではなく、見直しの必要がある。」という検定意見の通知は、いずれの部分においても、看過し難い過誤があるということはできず、文部大臣に裁量権逸脱の違法があったということはできない。また、前述の意味で裁量権の濫用があったということもできない。

四  注①と注②に対する「記述内容が事実であるかについては疑問があり、提出された適切な資料により事実の確認ができない場合は、記述の修正を求める。」という検定意見の適法性について

1 検定意見の趣旨

前記認定のとおり、入江調査官は、注①の記載と注②の記載に対しては、当初強い懐疑の念を有している旨を告知した上で、原告から関連資料の提出を受けることとなったことが認められるところ、この一連の入江調査官の言動は、前後の関係と周囲の状況に照らして、いずれも、提出された適切な資料により記載内容が事実に基づくとの判断ができない場合は、記述の修正を求める趣旨の検定意見であると認めるべきことは前述したとおりである。

ところで、原告は、右の検定意見がその告知の方法及び内容において、単なる事実確認の要請であるのか、検定意見であるのか明確ではないことを挙げて、違憲(運用違憲)であるとも主張するが、運用違憲には当たらないことは前述のとおりである。当裁判所は、前記認定のとおり、条件付きの検定意見としての通知があったと判断するのであるから、右判断に立ってその裁量権逸脱等の違法性を判断する。また、原告の右主張は、告知方法に関する違法を主張するものと解することができるが、この点については、後記第八において判断する。

2 検定意見における当てはめ判定

前記「指摘事項一覧表」の記載、右の検定意見の内容、通知に際しての入江調査官の前記認定の発言を総合すれば、右検定意見は、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」の「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」及び「各教科固有の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」中の「(3) 著作物、資料などを引用する場合には、評価の定まったものや信頼度の高いものを用いていること。また、史料及び法文を引用する場合には、原典の表記を尊重していること。」に該当するものとして通知されたと認められ、右のような理解は「選択・扱い及び組織・分量」の細項目を理解している被通知者には容易であったとと認められる。

3 原稿記述

さて、注①は、前記認定のとおり、本文中の「一九九一年の湾岸戦争では、イラクだけでなくアメリカを中心とする多国籍軍側も徹底した情報コントロールを行った。」という記述に付されたものであるところ、その内容は「多国籍軍は、クェート領内への反撃作戦は海からの上陸作戦ではじめるとマス-コミに報道するようにしむけ、実際は内陸から攻め込んだ。「おかげで敵の反撃は弱かった」と、多国籍軍首脳は記者たちに礼を述べたという。」というものであり、注②は、本文中の「また、イラクのフセイン大統領を「中東のヒトラー」とたとえた根拠の一つに、彼が国内のクルド族の反乱鎮圧に毒ガスを使ったことが伝えられたが、この時すでにアメリカ政府は、それが事実でないことを知っていた。」という記述に付されたものであって、その内容は「米国陸軍の研究所の分析によって、クルド族に用いられた毒ガスは、その成分から、イラクではなく、イラク近隣諸国が所有しているものであることが明らかにされていた。」というものである。

前記認定によれば、原告は、入江調査官の資料提出要求に応じて、一橋出版が平成四年一一月一〇日に修正表(第一次修正表)を提出した際に、この点に関する資料として、単行本「メディアの湾岸戦争」の抄出コピー(乙五の二の一)と雑誌「文芸春秋」の松原久子「戦勝国アメリカよ驕るなかれ」のコピー(甲五の二の二)をいずれも入江調査官に提出したことが認められる。

4 検定意見の検討

ところで、右の本文各記述の注①②の内容の事実の確認は、本来ならば、教科書調査官の職務の内容に含まれる事柄であるから、入江調査官において事前にその真偽のほどを調査をすることが望ましかったというべきであるが、このことが事実上困難であったために前記認定のとおりの検定意見になったと推認される。

しかしながら、このような事情からも推し量ることができるように、右の注①②の記載内容に係る事実関係は、いずれも当時の日本の社会において一般的な公知の事実とはなっていなかったものと推認される。すなわち、原告がその根拠として入江調査官に提出した単行本「メディアの湾岸戦争」(乙五の二の一)と雑誌「文芸春秋」(甲五の二の二)についてみると、一般的な総合雑誌である文芸春秋でもその販売部数は数十万部であると推測されるのであり、そこに前記評論を発表することによって直ちに内容が広く社会的な認識の対象になったとは必ずしもいえないと考えられ、また、右の単行本についても、その発行部数を推測する資料はないが、総合雑誌である「文芸春秋」よりははるかにその販売部数が少ないものと推測されるところであるから、より一層その記載内容が公知の事柄になっていたとはいえないものと考えられる。また、原告が本件において証拠として提出した甲五の二の一の新聞記事は、確かに前記注①の記載の根拠となり得るものと認められるが、右記事がどの程度反響を呼び一般の関心に対象になったかについては、これを認めるべき証拠がない。また、甲五の二の三の木村愛二「湾岸報道に偽りあり」(汐文社)と甲五の二の四の雑誌AERA一九九三・六・五「湾岸戦争の七つの謎を追う」の記事についても同様の事情を認めることができるというべきである。

5 まとめ

したがって、右の注①に対して入江調査官が「そういった事実はあるのか。作戦は秘密のうちにやるものであり、このようなことを言うとは思えない。」との疑問を投げかけ、注②に対して「こういうことがあるとは思えない。事実に反しているんじゃないか。」という発言をしたのも、当時の一般的な認識からみれば、特に不当な認識に基づく疑問であったということはできない。

ところで、これら検定意見が準拠したと認められる検定基準は、「各教科共通の条件」「選択・扱い及び組織・分量」の「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」、及び「各教科固有の条件」「選択・扱い及び組織・分量」「(3) 著作物、資料などを引用する場合には、評価の定まったものや信頼度の高いものを用いていること。」であったが、事実の確認のための資料の提出を求め、事実の確認ができない場合には記述の変更の必要があるとの趣旨の検定意見は、右検定基準に照らして、不当なものということはできず、看過し難い過誤があるとはいえないから、右の検定意見の通知において、文部大臣に裁量権の逸脱の違法を認めることはできない。また、前述した意味での裁量権の濫用があったということもできない。

五  「テーマ(6)」の全体に対する検定意見について

1 前記認定のとおり、入江調査官は、冒頭に「「テーマ(6)」において、「現在のマス-コミと私たち」というテーマの下で取り上げられている内容が不明確であり、素材も適切であるとはいい難いので、「テーマ(6)」の全体を見直し、修正すべきである。」という検定意見を通知したことが認められる。原告はこの「テーマ(6)」全体に対する意見は個々の検定意見のまとめとしての意味があるのみで、独立の検定意見としては成立していないと主張するが(被告は検定意見の通知があったと主張していることは前述のとおり。)、前記認定のとおり独立の検定意見として成立していると認定すべきものであると判断する。このような判断に立つとした場合、原告の主張の趣旨に鑑みれば、独立の検定意見として成立しているのであれば、その違法をも主張する趣旨であると解すべきであるから、この「テーマ(6)」全体に対する検定意見に対しても、その違法適法の判断を加えることとする。

2 検定意見における当てはめ判定

以上の認定を総合すると、「テーマ(6)」全体に対する検定意見は、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」の「(1) 図書の内容の選択及び扱いには、学習指導要領に示す目標、学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いに照らして不適切なところ、その他生徒が学習する上に支障を生ずるおそれのあるところはないこと。」、「(3) 話題や題材の選択及び扱いは特定の事象、事項、分野などに偏ることなく、全体として調和がとれていること。」、「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」、「(7) 全体として系統的・発展的に組織されており、学習指導要領に示す標準単位数に対応する授業時数並びに学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いに照らして、全体の分量及びその配分は適切であること。」に該当するものとして通知されたものと認められ、右のような判定は、「選択・扱い及び組織・分量」の細項目の内容を理解している被通知者には、容易に理解することができたものと推認することができる。

3 前記認定の「テーマ(6)」の記述等の内容と原告の執筆意図を勘案すれば、「テーマ(6)」は、素材として、昭和天皇逝去報道、湾岸戦争におけるマスコミの果たした役割、コミックス・コミックス誌の出版状況を取り上げながら、要するに、天皇逝去報道における意識的な「過剰報道」、湾岸戦争における意識的な「情報コントロール」、マスコミにおけるコミックス・コミックス誌の比重の増加を考えさせようとするものということができる。

(一) しかしながら、右の二で判断したように、意識的な過剰報道の事実を考えさせようとした「考えてみよう1」の設問記述においては事実関係の理解に不正確なところがあったと認められ、右の設問記述で高等学校の生徒に天皇逝去に関するテレビの特別番組の在り方を考えさせることは検定基準に抵触することとなるという検定意見は適法なものであった。

(二) また、右の三で判断したように、「過剰報道」との批判的観点に立つ天皇逝去報道に関する本文記述等には、昭和天皇の逝去の持つ社会的歴史的な意味の大きさ又は広がりに対する無配慮が見られるため、検定基準に抵触するといわざるを得ないものであり、また、文部大臣が指摘するように、その当時の各界、各層の人々から表明された昭和天皇に対する追悼の意、マスコミ各社の同様の意に基づく特別番組の編成方針及び特別番組に対する視聴者の反応についても取り上げるとすれば、自ずと昭和天皇逝去の持つ社会的歴史的な意味の大きさあるいは広がりを捉える記述になり、その結果、明示的に昭和天皇逝去の持つ右のような意味合いとマスコミが陥りがちであるという報道姿勢の問題とが対比されることとなり、必然的に天皇制又はその戦前戦後の比較などに関する問題を問いかけるものになると考えられるから、「テーマ(6)」の趣旨からは逸脱することとなって、検定基準に抵触するという検定意見は違法とはいえない。

(三) また、右の四で判断したように、「情報コントロール」があったとされる湾岸戦争の際のマスコミの対応に関しては、その問題性は必ずしも一般的な認識となっていなかった(特に高等学校の生徒にはそのようにいえると認められる。)事実を記載するものであり、これが検定基準に抵触するという検定意見は適法なものであった。

(四) 更に、最後のコミックス・コミックス誌の素材についても、前記認定の「テーマ(6)」の記述全体を通読すると、天皇逝去報道と湾岸戦争関連報道の素材は、いずれも意識的な「過剰報道」又は「情報コントロール」を問題意識として記述されていると考えられるのに対して、最後のマスコミにおけるコミックス・コミックス誌の「比重の増加」は、その性質上、自然発生的な現象と考えるほかはないものであるから、当然前二者に対する問題意識とは異なる筈であり、均衡の点でやや不自然さがあるということができる。

4 そうすると、文部大臣の「「テーマ(6)」において、「現在のマス-コミと私たち」というテーマの下で取り上げられている内容が不明確であり、素材も適切であるとはいい難いので、「テーマ(6)」の全体を見直し、修正すべきである。」という検定意見は、右の検定基準に当てはまるというものであり、右の当てはめ判定は相当であると認められ、その判定に看過し難い過誤があるということはできない。したがって、右検定意見の通知に裁量権の範囲を逸脱した違法があるということはできず、また、前述した意味で裁量権の濫用があったということもできない。

第七  「テーマ(8)」関係の検定意見の適法性又は違法性

一  判断の対象としない検定意見

原告の主張の趣旨によれば、「テーマ(8)」全体に対する検定意見については、原告は何らその違法を主張していないことが明らかであるから、この点についての判断はしない。また、前記認定の、「『戦後、日本は平和主義を基本としているが、一九八二年の教科書問題、一九八九年の昭和天皇の大喪の礼の代表派遣、一九九一年の掃海艇派遣問題などで、内外に議論がおこっている。』という本文記述は、教科書問題、昭和天皇の大喪の礼の代表派遣、掃海艇派遣問題などが平和主義に反する問題であるように読めるので再検討をする必要がある。」という検定意見、「天皇の憲法上の地位に鑑み、昭和天皇の『死去』という表現は学習上適切ではないので、修正する必要がある。」という検定意見、「ASEAN諸国における対日世論調査」の掲載に対して通知された「出典を明示する必要がある。」という検定意見、「新明日報」の見出しの引用に対して通知された「新明日報の見出しを載せるのであれば、他の箇所の記載との関連に配慮していただきたい。」という検定意見、注③に対して通知された「事実確認ができなかったときは、記述の修正を求める。」という検定意見についても、原告がそれらの違法性の主張をしていないものと認められるから、これらに対する適法違法の判断をしない。

二  「テーマ(8)」の注②の記載と「脱亜論」の抜粋文掲載に対する「脱亜論の扱いが一面的であるので、それが書かれた背景事情をも考慮して記述を再考すべきである。」という検定意見の適法性について

1 原稿記述の各内容とその関係

まず、右注②は、「テーマ(8)」の本文記述中の「第二次世界大戦で、日本軍は「大東亜共栄圏」①の建設をめざして、アジア・太平洋地域で戦い、敗れた。これが、明治以来の「脱亜入欧」②の道、西欧近代国家への道をとり、アジアの諸民族・諸国家に犠牲をしいた近代日本の一つの結末だった。」という部分にある「脱亜入欧」に付されたものであり、その内容は「福沢諭吉が発表した「脱亜論」の主張を要約したことばで、欧米を手本とした近代化を最優先し、そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだというもの。」というものである。また、「脱亜論」の抜粋文は、その頁の最後に掲げられており、「脱亜論福沢諭吉 (1885年)」の標題の下で、四角の枠組の中に「今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て、共に亜細亜を興すの猶予ある可からず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」という引用文を収めている。甲六の一の一ないし五と弁論の全趣旨によれば、右の引用文は一八八五年(明治一八年)三月一六日付けの「時事新報」に発表された福沢諭吉の社説評論「脱亜論」の末尾の文章をそのまま抜粋したものであることが認められる。

これらの記述の関連は、前記本文記述中の「脱亜入欧」の説明のために前記注②が付され、右注②の記載に登場する「福沢諭吉が発表した「脱亜論」の主張」という部分の参照のために原文から前記抜粋文が引用されて掲載されたという関係にあるものと認められる。

2 検定意見の当てはめ判定とその指摘

これに対する文部大臣の検定意見は、「「脱亜論」の扱いが一面的であるので、それが書かれた背景事情をも考慮して記述を再考すべきである。」というものであるが、この内容から明らかなように、この検定意見は、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」中の「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に該当すると判定されたものと認められ、右のような当てはめ判定は、「選択・扱い及び組織・分量」の細項目の内容を理解している被通知者には容易に理解することができたと認められる。

前記認定の記述間の関連を見れば、右の検定意見は、本文中の「脱亜入欧」の成句に付された注②の記載とその関係で掲載された前記抜粋文の双方を対象として通知されたものであると認められるから、注②の記述と前記抜粋分の双方について、検定基準に照らして「「脱亜論」の扱いが一面的であり、背景事情を考慮して記述を再検討する必要がある。」ということができるか否かが判断の対象となるのである。ところで、入江証人によれば、原文記述では、福沢諭吉が一貫した対アジア植民地主義者であったという印象を高等学校の生徒に与えてしまう恐れがあり、福沢諭吉には、啓蒙思想家としての重要な側面があるのであるから、「脱亜論」が書かれた背景事情といわれている朝鮮の甲申事変等を考慮することなく記述するのは、一面的な紹介となり、高等学校の生徒に福沢諭吉の思想について一面的な理解を与える恐れがあるということが検定意見の趣旨及び動機であったことが認められる。

3 判断の方法

したがって、裁判所が行うべき判断の対象は、右検定意見が把握した(1)「テーマ(8)」の原文記述における「脱亜論」の扱いが福沢の思想なり業績と考えられているところに照らして一面的であると判定した点、(2) 右の扱いにおいて朝鮮の甲申事変等の背景事情を考慮することは一面性を回避するために必要であると判定した点のそれぞれの適否ということになると考えられる。

ところが、検定意見が右の各点を判定するに際しては、福沢諭吉の思想なり業績と考えられているところに対する認識、朝鮮の甲申事変等が「脱亜論」執筆の背景事情となっていたという認識があったことになるが、これらの認識の対象たる事項は、そもそもいずれも日本近代史又は日本近代思想史等の学問上の研究対象となっている事柄であると考えられ、何人も学問上の研究成果を無視して独自の評価判断によって正しい歴史事実の認定と誤りのない評価に達することは困難であると考えられる。したがって、結局、福沢諭吉の思想なり業績と考えられているところに対する判定、朝鮮の甲申事変等が「脱亜論」執筆の背景事情となっていたかどうかに対する判定は、この点に関する日本近代史学、日本近代思想史学などにおける学問上の研究成果の把握によってこれを行うほかはないものであり、その手法をとらずに、行政機関である文部大臣が直接資料等に基づいてこれらの判定を行うことは、恣意的な検定制度の運用につながり、ひいては教育への介入はできるだけ抑制的であるべきとする憲法又は教育基本法上の前述の要請から遊離し、教育に対する「不当な支配」をもたらす危険を冒すものというべきである。したがって、検定意見の適否を審査すべき裁判所は、前述の学説状況の適切な把握によって判定すべき事項について、文部大臣の検定意見が学説状況から離れて独自に判断したところはないか、学説状況等の把握によって判断している場合にも、その把握が公正・適切に行われてその判断過程に誤りはないかを審査すべきこととなる。なお、裁判所の右審査においては、弁論主義の原則上、当事者から提出された証拠のみに基づいて判断する以外にないことはいうまでもない。

4 「脱亜論」の扱いが一面的といえるか。

そこで、前述の観点から、まず、注②の記述と「脱亜論」引用文掲載において「脱亜論」の扱いが一面的であるとする検定意見の判定に誤りはないかを検討する。

(一) 注②の記述の趣旨

(1) 注②は、本文中の「脱亜入欧」に加えた説明であり、「福沢諭吉が発表した「脱亜論」の主張を要約したことばで、欧米を手本とした近代化を最優先し、そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだというもの。」との記述であるが、右文中の「脱亜論」の理解促進のためにその末尾文が抜粋掲載されたという関係にあることは前述のとおりである。したがって、右の関係をみると、原稿記述は、ア まず「脱亜入欧」は「脱亜論」の主張を要約した成句であるとし、イ 更に「脱亜入欧」は、「脱亜論」の主張である「欧米を手本とした近代化を最優先し、そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだというもの。」という意味の説明を記述しているものと考えられる。したがって、注②に対する前述の検定意見の適否を判断するには、原文記述の趣旨を右のとおり分けて検討することとする。

(2) これに先立ち、まず、「脱亜論」の主張内容を見ると、甲六の一の五によれば、「脱亜論」の論旨は、まず西洋文明が流行病のように東洋に蔓延するのは時流の勢いであって、これを防止することはできないことを指摘し、日本には古風老大の政府があったが、近時の文明に接して国を政府よりも大事と考えてこれを倒し、新政府を立てて国中朝野の別なく西洋文明を取り入れ、旧套を脱してアジアの中で新たに一機軸となる国家を造ったが、その主義は「脱亜」であると説き、ところが隣国の中国と朝鮮は、古来アジア的な政教風俗の下で生きてきたことは日本と同じであるが、西洋文明に接しているのに心を動かさず、古風旧慣から離れることができず、教育においては儒教主義を行い、学校では仁義禮智を旨として、外見の虚飾を重視し、真理原則に対する知見がないばかりか、道徳さえ低下して残酷不廉恥であって、私見によれば、この二国は日本の明治維新のような政治と人心を一新する大挙があれば格別であるが、そうでないならば、数年後にも文明諸国に分割されて国が亡びるであろうと警告し、更に、輔車唇歯という隣国は相助けるとの喩えはあるが、中国と朝鮮は日本の助けにならないばかりか、西洋人の目には、日本を中国朝鮮と同一視し、日本も同様に政府が古風専制で法治がなく、科学主義の行われない陰陽五行の国と評価し、中国人のように卑屈で恥を知らず、朝鮮の残酷な刑制のように無情な国民であると考えられてしまう例は枚挙に遑がなく、このことは、狭い村などでは村人が愚かで無法で残忍無情であれば、まともな者がいてもその者も同様に見られてしまうのと同じであると指摘した上で、このような影響は既に出ており、間接的に日本の外交上の障害となっていることが少なくなく、日本国の一大不幸というべきであると主張し、したがって、外交上の策を立てるに当たっては、日本は隣国の開明を待ってアジア全体の隆盛を図るという余裕はなく、むしろアジアの列を脱して西洋文明諸国と行動を共にし、中国朝鮮に対しても隣国だからといって気兼ねすることなく、西洋諸国と同様の手法に従ってこれを処分すべきである、悪友に親しめば日本も悪名を免れない、私はアジアの悪友を謝絶する、という議論の展開を行うものであると認められる。

したがって、「テーマ(8)」に掲載された前記抜粋文は、「脱亜論」の結論部分に該当し、発表紙誌の明示がないものの、右結論部分を抜粋して掲載したことは、紹介の方法として特にこれを不当とすべき問題はないと考えられる。なお、甲六の一の一によれば、「脱亜論」のこの部分の抜粋は、山川出版社「新詳説日本史改訂版」(平成三年改訂検定済)二六八頁の「日本人のアジア観の変化」という柱書きの下での記述に登場する「脱亜論」の紹介として掲載されていることが認められる。

(二) 「脱亜入欧」は「脱亜論」の主張の要約ということができるか。

(1) そこで、注②の記述の内の「脱亜入欧」は「「脱亜論」の主張の要約」とする部分について検討する。

(2) ところで、「脱亜論」自体の論旨は前記認定のとおりであって、原文の議論をみると、明らかに「脱亜」に力点を置いて展開されており、「入欧」という熟語表現は見あたらず、「入欧」の趣旨が西洋文明の積極的な受容というものであるとすれば、「脱亜論」の主張は、既に日本はある程度これを達成しており、だからこそ「脱亜」を図るべきであるという趣旨の論理が展開されていると解されるのであるが、この点に関する学説状況を見ると、甲六の一の五、乙六の一の一ないし三と弁論の全趣旨によれば、丸山真男「「文明論之概略」を読む」下(一九八六年)三二一頁には、「脱亜論」に関して「これは一回載ったきりの社説であり、時事論であることは明白なのですが、「脱亜入欧」というコトバがあたかも福沢の思想の圧縮的表現のように現在受けとられ、流布していますので、」という記述があり、また、三田評論第八五二号(昭和五九年)座談会「近代日本と福沢諭吉」一六頁にも、丸山真男教授の「福沢と言うと「脱亜論」とくる。近代日本は福沢の引いた脱亜入欧の路線を歩んだと言うんですよ。「脱亜」という言葉は時事新報のある日の社説の題目に一度つかっただけですし、「入欧」という言葉は福沢はつかっていない。」と述べられており、丸山真男「『福沢諭吉と日本の近代化』序」みすず第三七九号(一九九二年)一七頁には、「「入欧」という言葉にいたっては、(したがって「脱亜入欧」という成句もまた、)福沢はかって一度も用いたことがなかった。」との記述があることが認められる。これらの論述等によれば、福沢諭吉は「脱亜入欧」の熟語を用いた論説ないし評論を書いたことはないというのであるから、右の丸山真男教授の見解は、「脱亜入欧」の成句が福沢諭吉の著作なり論説上の主張からある程度遊離して成立し、使用されていることを指摘するものと解される。

(3) 更に、他の高等学校用教科書における「脱亜入欧」の用例を検討すると、前出甲六の一の一、甲六の一の二、甲六の一の五、乙六の一の六によれば、例えば、一橋出版高等学校公民科用「倫理」(平成五年三月検定済)一二八頁から一二九頁までにおいては、「西洋近代思想の受容の光と陰―福沢諭吉と中江兆民」の項中の、福沢諭吉に関する「天賦人権論と脱亜論」の柱書の下で、「天賦人権にもとづく人と国家の平等を日本人にはじめて説いた福沢の『学問のすヽめ』の、「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と云えり」ということばは不滅である。しかし、その福沢はやがて、日本が欧米列強に対抗できるまでは民権よりも国権をと主張し、湧きおこった自由民権運動に反対するようになった。また、朝鮮や中国が自力で西洋化できない以上は、日本の安全のために日本が欧米側に立ってアジアを支配するのもやむを得ないという、侵略的な「脱亜論」を唱えるようになった。福沢は日清戦争を「文明」と「野蛮」の戦争とよび、その勝利を「文明」の勝利としてよろこぶ先頭に立った。もちろん、このような「脱亜入欧」思想は決して福沢だけのものではない。明治政府を先頭に、かつての自由民権派の大多数も含めた当時の多くの国民の思想でもあった。しかし、それをだれよりも率先して明確に思想として主張し、わかりやすく展開したのはやはり福沢である。」との記述を掲げ、「脱亜入欧」が福沢諭吉を含めた当時の多数の国民の「思想」を表す成句として用いられていたことを窺わせており、一橋出版高等学校地理歴史科用教科書「世界史A」(平成五年二月検定済)一八七頁においては、「アジアのなかの日本」という柱書の下で、「日本は、明治以来、欧米列強に追いつき追いこせを目標に近代化をはかってきた。そして、それはみずからその一部であるアジアを蔑視する風潮と結びつき、アジアへの侵略を正当化することになった。明治維新から一世紀をへた今日でも、この「脱亜入欧」の姿勢はかわらないのではないだろうか。」との記述を掲げた上、その「脱亜入欧」に注を付して「福沢諭吉の『脱亜論』からとられた言葉で、欧米をモデルに日本の近代化をすすめようとする思想を意味する。」との説明が加えられていることが認められるから、ここでは、「脱亜入欧」の熟語表現が「脱亜論」を端緒として成立したことを指摘するとともに、これを近代化を志向する「姿勢」ないし「思想」として捉えているものと考えられる。また、清水書院「新日本史A」(平成五年三月検定済)七六頁は、「岩倉使節団―脱亜入欧への道―」という「コラム23」の中で「欧州歴訪の帰路に寄港したアジア各地での見聞は、欧米体験とあいまって使節団に欧米を「文明」とし、アジアを「野蛮」とする世界観を植えつけ、この後の明治政府に、早急な資本主義化と、「脱亜入欧」への道を選ばせることになった。」という記述を掲げていることが認められるから、「脱亜入欧」の熟語は、明治政府の基本政策の方向ないし目標に関する表現であるとの考え方に立っているものと認めることができる。なお、「脱亜論」の同じ抜粋文を掲載する前出の山川出版社「新詳説日本史改訂版」(平成三年改訂検定済)二六八頁は、「日本人のアジア観の変化」という記述の中で「脱亜論」に触れるものの、これが「脱亜入欧」と関連するという記述はしていないことが認められる。

これらの教科書記述によれば、一般に「脱亜入欧」の成句は、これが成立するについては福沢諭吉の「脱亜論」の発表がその契機となったと考えられていると認められるが、主として明治期における国家目標ないし明治政府の基本政策の在り方、又はその当時の国民の「姿勢」ないし「思想」の表現として用いられているものと考えられ、前述の丸山真男教授の研究の結果と概ね理解を共通にしているということができる。

(4) これに対して、甲六の一の八(安川寿之輔「増補日本近代教育の思想構造」新評論(一九九二年))、甲六の一の一〇及び一一と安川証人によれば、福沢諭吉の対外認識を理解すれば、「脱亜論」の主張を「欧米を手本とした近代化を最優先し、そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだというもの。」という意味で理解することはごく自然な解釈であり、「脱亜入欧」の成句の意味も、「脱亜論」の主張の要約と解釈することは自然なものである、すなわち、初期啓蒙期から福沢の思想は、当時の明治政府の思想と一致しており、マイト・イズ・ライトの国際関係認識を前提とした国権論の立場に立っていたし、明治一五年七月の「壬午軍乱」と明治一四年一二月の「甲申事変」以降においては、福沢はアジアへの蔑視=侵略の先頭に立つことになるが、その原因は福沢の初期啓蒙期からのその思想に内在していた、という学説があることが認められる。

この学説の見解によれば、「脱亜入欧」の成句は、単に文明に関する国家目標、近代化を志向する「姿勢」又は国民の「考え方」「思想」というにとどまらず、欧米列強と同様の外交手法をとるべしとする対外政策論、具体的には対アジア植民地化政策論の考え方を意味するということになるものと解される。

(5) もっとも、右のような学説に対しては、「脱亜論」の読み方を文明論の尺度で行うべきとする反対論があることが認められる。すなわち、乙六の一の四によれば、池井優「増補日本外交史概説」慶應通信(昭和五七年)六四頁は、「2 脱亜と即亜」という款において「脱亜論」の論旨を要約した上、「ただ福沢の『脱亜論』を読むにあたって注意すべきことは、日本が欧米列強とともにアジア諸国に対して侵略を行うことを肯定しているのではないことである。すなわち、欧米を手本とし、それに習うこと自体に価値があるという文明論の尺度からのみこの論は成りたっている点に注目すべきである。」との議論を展開していることが認められる。この見解は、「脱亜論」の主張を「アジア諸国に対する侵略を肯定するものではない」とするから、前記安川教授の見解に対しては反対説となるものであるが、「脱亜論」は文明論の尺度で読む限りは、「欧米を手本とし、これに習うこと自体に価値がある」とするものというのであるから、「脱亜論」の内容を「脱亜入欧」と要約することは、むしろ適切であると解釈する可能性があるものと解することができる。

(6) 以上のような学説等の状況を見ると、「脱亜入欧」を「脱亜論」の要約と捉えることはできない、あるいは「脱亜論」は文明論の尺度で述べられたものである、という見解と、「脱亜入欧」は欧米列強と同様の外交手法をとることを求める対アジア植民地化政策論を意味し、「脱亜論」の主張の要約と解することは自然であるという見解とが対立しているものと認められる。このような学説状況の中で、前記の他の教科書記述は、概ね「脱亜入欧」を文明に関する国家の「目標」、基本政策、国民の「姿勢」ないし「思想」に関する熟語表現として使用していると認められる。

入江証人と小林証人によれば、このような学説等の状況に対して、教科書調査官は、「脱亜論」の解釈評価についてはさまざまな議論があり、大きく分けて二つの対立する見解があるとの理解に立ち、注②の原稿記述では一方の学説見解に立つこととなるとして、その扱いが一面的であるという検定意見を述べていたことを認めることができるから、教科書調査官が独自の見解に基づいて前記の検定意見を通知したものと推認することはできない。

(三) 「脱亜入欧」は、「欧米を手本とした近代化を最優先し、そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだというもの。」という説明は、一面的なものか。

(1) 次に、注②の後段部分に関して検討する。まず、前記認定の「脱亜論」の原文の論旨をみると、この論旨は概ね日本は既に文明化を終えているのであるから、文明化を拒否している中国と朝鮮と同視されることを避けるためにも欧米の文明国と同様の態度でアジア諸国に対処すべきだ、というものであると解されるのであるが、注②の「欧米を手本とした近代化を最優先し、そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだ」という説明が妥当するか否かは、原典のみではにわかに判定することができない。

そこで、この点の学説状況をみると、前記引用の池井教授の論述は、「脱亜論」は「日本が欧米列強とともにアジア諸国に対して侵略を行うこと肯定しているのではな」く、「欧米を手本とし、それに習うこと自体に価値があるという文明論の尺度からのみこの論は成りたっている」とするものであるから、注②の「そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだというもの。」という解釈とは、明らかに「脱亜論」と「脱亜入欧」の理解を異にするということができる。

(2) また、安川教授の学説は、前述のとおり、初期啓蒙期から福沢諭吉の思想はマイト・イズ・ライトの国際関係認識を前提とした国権論の立場に立っていたし、明治一五年七月の「壬午軍乱」と明治一四年一二月の「甲申事変」以降において福沢がアジアへの蔑視=侵略の先頭に立つことになった原因は、福沢の初期啓蒙期からの思想に内在していたとし、このような福沢諭吉の対外認識を理解すれば、「脱亜論」の主張を「欧米を手本とした近代化を最優先し、そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだというもの。」という意味で理解することはごく自然な解釈である、とする見解であって、原稿記述の注②の右記述は、概ねこの安川教授の学説に沿うものであると認められる。また、前述の一橋出版高等学校公民科用「倫理」の「西洋近代思想の受容の光と陰―福沢諭吉と中江兆民」の項は、「しかし、その福沢はやがて、日本が欧米列強に対抗できるまでは民権よりも国権をと主張し、湧きおこった自由民権運動に反対するようになった。また、朝鮮や中国が自力で西洋化できない以上は、日本の安全のために日本が欧米側に立ってアジアを支配するのもやむを得ないという侵略的な「脱亜論」を唱えるようになった。」と記述するから、「脱亜論」が「侵略的な」ものであるとの理解に立っているものと考えられ、この見解も概ね安川教授の学説に近いということができる。

(3) ところが、乙六の一の三によれば、前出丸山真男「『福沢諭吉と日本の近代化』序」みすず第三七九号一七頁以下は、「脱亜論」の社説は朝鮮開明派の挫折に対する「福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない。」「しかし、そのことと、福沢がこれ以後、中国や朝鮮に対する近代化・文明化への関心を失ったかどうか、ということはまったく別個の問題である。(中略)たとい便宜上、シナとか朝鮮とかいう同じ表現が用いられていても、福沢の思想においては、終始、政府(政権)と国とをハッキリ区別する立場がとられ、また、政府の存亡と人民あるいは国民の存亡とをきびしく別個の問題として取り扱う考え方が貫かれていた」「そのことを念頭に置いて、福沢の対外政策についての論稿を綿密に辿ると、彼が滅亡とか衰退とかいう悲観的な言葉を語るのは多くの場合、その実質的な対象が中国や朝鮮の人民や国民にたいしてよりは「満清政府」あるいは李氏朝鮮政権に向けられていたことが容易に判別される。福沢はこれら旧体制の政権が帝国主義列強の集中的な侵食に自力で抵抗する可能性を果たしてもっているか、そうした抵抗のために不可避な近代国家への自己変革―自由と独立への途―を自力できりひらくことができるか、という展望について、悲観的になって行ったことは否定できない。そうした悲観や失望はあくまで旧体制の政府にたいして発せられていた。だから、日清戦争について最強硬の「タカ派」であった福沢は、戦勝後の日本の中に、中国と中国人とを侮辱し軽視する態度が一部に生まれていることに対し、憂慮し、警告することを忘れなかったのである。」「「儒教主義」にたいする福沢の根深い敵意と反対も、上に述べたような区別の立場を考慮せずには理解できない。すなわち、彼の攻撃目標は、儒教の個々の徳目に向けられたというよりは、体制イデオロギーとしての「儒教主義」の病理に向けられたのである。」「したがって、「脱亜」という表現を脱「満清政府」及び脱「儒教主義」といいかえれば、福沢の思想の意味論として、いくらかヨリ適切なものとなるであろう。」という見解を述べていることが認められる。したがって、この丸山教授の見解は、「脱亜論」のみならず、福沢諭吉の対外認識論は、無条件で侵略的なものと理解することはできないというものであると考えられるから、前述の安川教授の学説とは一致しないと考えられる。

(4) 更に、乙六の一の九によれば、「福沢諭吉選集」第七巻(一九八一年)の末尾解説において、坂野潤治教授は、「さらに福沢は安南問題をめぐる清仏間の対立の中で、清国の弱体性が次第に明らかになると、一層積極的、具体的な内政干渉に干与し、金玉均ら親日=改革派が日本公使館と共謀して起したクーデター(甲申事変)にかなりな程度にまでコミットしていくのである。甲申事変が失敗して、改革派援助による朝鮮近代化=親日化政策が完全に失敗したことは、福沢にとっては、朝鮮問題に関する明治十四年初頭以来の状況構造が根底から変化したことを意味した。このとき福沢は、朝鮮国内の改革派を援助しての近代化政策をこれ以上追求することは無意味であることを宣言するために「脱亜論」を書いたのである。これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。福沢の「脱亜論」をもって彼のアジア蔑視観の開始であるとか、彼のアジア侵略論の開始であるとかいう評価ほど見当違いなものはない。」という見解を展開していることが認められる。この坂野教授の見解は、「脱亜論」は福沢に一貫してあった朝鮮国内における改革派の援助という東アジア政策論の「敗北宣言」ともいうべきものであり、「福沢の「脱亜論」をもって彼のアジア蔑視観の開始であるとか、彼のアジア侵略論の開始であるとかいう評価ほど見当違いなものはない」というのであるから、この見解は、丸山教授の見解と概ね近く、安川教授の前述の見解とは明らかな差違があると解される。

(5) 以上のような学説等の状況を見ると、注②の記述のように、「脱亜入欧」を「脱亜論」の主張を要約した成句とした上で「欧米を手本とした近代化を最優先し、そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだというもの。」という理解に関しては、福沢の対外認識論の理解からは自然な解釈であるとする見解(安川教授)と、「脱亜論」はアジア諸国に対する侵略の肯定論ではないと明言する学説(池井教授)、「脱亜」という表現は脱「満清政府」及び脱「儒教主義」と言い換えられるべきもので、「脱亜論」のみならず福沢諭吉の対外認識論は無条件で侵略的なものと解することはできないとする見解(丸山教授)、及び、福沢の朝鮮国内における改革派の援助という東アジア政策論の「敗北宣言」ともいうべきものであり、「脱亜論」をもって彼のアジア蔑視観の開始であるとか彼のアジア侵略論の開始であるとかいう評価は見当違いであるとする見解(坂野教授)などが対立する状況にあるものと把握するのが相当である。

入江証人と小林証人によれば、このような学説等の状況について、教科書調査官は、「脱亜論」の解釈評価についてはさまざまな議論があることを認識した上で、原稿記述は一方の学説見解に立つものであるとして「脱亜論」の扱いが一面的であるという検定意見を述べたものであると認めることができる。したがって、教科書調査官が、独自の見解で右検定意見を形成し通知したものとはいえない。

5 「脱亜論」の扱いにおいて朝鮮の甲申事変等の背景事情を考慮することが必要か。

(一) 検定意見の趣旨

(1) 検定意見は、「「脱亜論」の扱いが一面的であるから、背景事情をも考慮して記述を再考すべきである」というものであるが、その趣旨は、一面性を回避するには背景事情をも考慮する必要があることを指摘するものと理解することができる。したがって、右の検定意見の適否を判断するには、更に「脱亜論」の扱いにおいてはその背景事情をも考慮する必要があるというべきかの点についても、検討する必要がある。

(2) 入江証人は、右の検定意見に関して「脱亜論に対してはいろいろな読み方がある。福沢が支那朝鮮を植民地化すべきというように思想を持っていたという説もあるが、福沢は朝鮮の近代化のためにいろいろと物心共に尽力していたのに、それが甲申事変で失敗に終わり、そういう失望と憤激の中で書かれたものであるから、そのような背景事情も考慮しなければならないという説も有力である。また、脱亜論が福沢の全思想の中でどのような位置を占めるかについても議論のあるところであるから、原文の記載のような書き方では、福沢の思想を一面的に捉えることとなり、教科書としては適切ではない。」と供述し、また甲三の九によれば、入江調査官が参考にしたと考えられる前記小林メモには、「脱亜論をして彼の思想全体を覆うものとは、一般的に理解されてはいない。したがって、明治一八年の「脱亜論」のみを引用し、これによってあたかも彼が朝鮮征服を積極的に肯定しており、朝鮮に対して欧米並の高圧的態度をとるべきだと考えていたかのような印象を与えようとするのは、福沢の思想の一面的理解に通ずるのみならず、この時代の日本にとっての朝鮮問題、アジア問題を一面化して理解させることにもなるおそれがあるといえる。とくにこの「脱亜論」自体、前年に起こった「甲申事変」―福沢のごく親しかった朝鮮人活動家が参加し、敗退している―との関連の中で書かれたというのが通説である。ここには「異例の感情的要素」(石田)が含まれているとされており、彼の文章をそのまま額面どおりに受けとめるのは少々短絡的ともいえる。引用されている部分は、全文のなかでもとくに感情的な印象を強くうける部分である。」とあることが認められるから、教科書調査官は、「脱亜論」が朝鮮における甲申事変において開明派が挫折したことを受けて執筆されたという学説上の研究結果を参考にして「背景事情をも考慮する必要がある」という趣旨の検定意見を通知したものと認められる。

したがって、教科書調査官の独自の見解に基づいて右の検定意見を形成し通知したということはできない。

(二) 「背景事情」に関する学説状況

そこで、右の「背景事情」に関する学説状況を検討し、教科書調査官の学説状況に対する把握が相当なものであったか否かを判断することとする。

(1) まず、甲六の一の六(福翁自伝)、甲六の一の一〇及び一一、入江証人、安川証人と弁論の全趣旨によれば、福沢諭吉は、明治一四年ごろ明治政府の要人から官報発刊に対する協力要請を受けたことがあったが、これを最終的に断り、慶応義塾の門下生を中心として独自に新聞の発行を企画し、明治一五年に「時事新報」を創刊するに至り、その後はしばしば「時事新報」上に社説を執筆することとなったこと、その社説は、当時の福沢の時事評論等の主要な発表の場の一つとなり、明治一八年三月一六日の「脱亜論」も右の社説として執筆されたものであることを認めることができる。

(2) 前出の丸山真男「「福沢諭吉と日本の近代化」序」みすず第三七九号一七頁以下によれば、丸山教授は、「脱亜論」執筆の背景について、「「脱亜」の文字を用いて書いた『時事新報』の短い社説は、その直前の一八八四年十二月に、李氏朝鮮で勃発した「甲申事変」とそのクーデターの短命な崩壊の衝撃の下に執筆された。このクーデターで主役を演じた金玉均・朴泳孝ら李氏朝鮮内部の「開化派」(または「独立派」)の立場は、清国の場合と比較するならば、いわゆる「洋務派」よりは「変法派」に近かった。」「福沢は、これら金玉均ら朝鮮開化派の動向に思想的にだけでなく、ある程度実践的にも早くからコミットしていた。それだけに、甲申の政変が文字通りの三日天下に終わったときの、福沢の失望は甚大であり、またこの事件の背後にあった日本及び清国政府と李氏政権とが、それぞれの立場から、政変の失敗を日和見主義的に傍観し、もしくは徹底的に利用した態度は福沢を焦立たせるに充分であった。「脱亜論」の社説はこうした福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない。」と解説していることが認められる。

右の見解によれば、「脱亜論」は、福沢諭吉が思想的に又は実践的にも関与していた朝鮮の「開化派」が甲申事変において三日天下に終わったことの失望の下で執筆されたもので、「挫折感と憤激の爆発」として読まれるべきものというのであるから、その背景事情としては、朝鮮の「開化派」の甲申事変における挫折があることを指摘しているものと解することができる。

(3) また、前出の池井優「増補日本外交史概説」(慶應通信)六一頁以下において、池井教授は、「幕末から維新にかけての欧米列強のすさまじいばかりのアジアへの進出をみるにつけ、日本人の目には欧米列強に対し相反する二つのイメージができ上ったように思われる。その一つは、文明先進国として日本が富国強兵を目ざすために積極的にその工業力、制度、習慣にいたるまで手本として取り入れるべきモデル国、もう一つは、圧倒的な力にものを言わせて支配者として振舞い、白人以外の民族を劣等民族とみなして、あたかも飢えた狼のごとく侵略をほしいままにしてゆく恐るべき国といったイメージである。はじめ西洋の文明に触れた知識人たちは、欧米社会に存在する平等観念といったものが国際社会にも通用するものと考えた。たとえば坂本龍馬、福沢諭吉等は万国公法(国際法)によって欧米列強とも対等のつき合いができる、あるいはまた国際場裡において対等の一国としての待遇を受けることを期待した。しかしながら、彼らによって課された条約が著しい不平等の側面を持っており、日本の改正要求に簡単に応じようとはしないその姿を見るにつけ、国際情勢は力関係によって決まることを知らされたのである。以上のような現実に直面する時、そこに考えられたのは、日本自らも積極的にその文明を取り入れ、自ら欧米列強の列に伍する、あるいは、同じく被圧迫国であるアジアの諸国、特に清国、韓国と提携して欧米にあたる、という相反する方向であった。」「しかしながら、明治維新以降日本が積極的な西洋の文物の導入に成功し、近代化を進めてゆくのに反し、清韓両国は依然としてそれらを拒否し、伝統にしがみついているありさまに、日本は次第にそれらの国々と相提携することに不安を感じ始めた。そして、清韓両国の近代化を待つ、あるいは、旧態依然たる現状のままに提携するのではなく、むしろ、日本が清韓両国の国内改革を促進し、近代化の方向に進むべきだとの考え方が出るにいたった。その代表的な主張者は福沢諭吉である。たとえば、福沢は一八八一年に書いた『時事小言』において日本の積極的な西洋の文物導入と文明の進歩を評価し、日本は東洋諸国の内で文明の中心にならなければいけない。したがって、清国に対し、その近代化を促進すべきで、それはあたかも自分の家を石造りにしたからといって隣りの家が木造であって安全であるはずはない、隣りの家も、これと交渉を行ない、自分の家同様に石造りにさせて後、初めて火災に対して安心である、といったたとえ話を用いて論じている。」「しかし、こういった日清提携の考え方とは裏はらに、現実の日清関係は一八七四年の台湾征討、一八八四年の朝鮮における甲申事変などをめぐって緊張した事態が発生した。特に日清関係を緊張させる主たる源泉は朝鮮半島であって、日清提携論者たちはしばしば朝鮮をめぐって日清両国の勢力が衝突することは日本にとって得策ではなく、またヨーロッパ勢力の介入に口実を与えるとして警戒する論調を展開した。しかし、朝鮮に発生した壬午の変は日本の為政者に大きな刺激を与え、同事件の発生直後の一八八二年八月一五日、山県有朋は清国を仮想敵国とする軍備拡張案を上申し、また海軍についても岩倉右大臣によって同年九月清国を仮想敵国とする拡張案が主張された。こうした献策に基づいて明治政府は、対清作戦を基準とする軍備拡張を計るにいたった。このようにしてすでに政府レベルにおいては清国は仮想敵国となったが、民間においても清国との関係は日本の国益において対処しようとする考え方が出るにいたった。清韓両国が新しい世界情勢に対する直視を怠っている際、アジアの唯一の力である日本が独自の行動を採ることが正統であるとの論拠から次のような論旨が生れてくる。その代表的なものが次に紹介する福沢の『脱亜論』である。」「福沢の『脱亜論』は、(中略)脱亜の方向を明示したのである。」との論述を展開していることが認められる。

この池井教授の見解は、「脱亜論」の背景事情について更に広く目を向けるものということができる。すなわち、国際情勢が力関係によって決定される現実に直面した日本が、欧米列強に伍するか、又はアジアの清国、韓国と提携して欧米に当たるかという相反する方向を模索する中で、次第に福沢を始めとして、日本が清韓両国の国内改革を促進して近代化に進ましめようという考え方が成立したが、現実の日清関係は、台湾征討、朝鮮問題などを経て次第に緊張した事態に発展し、明治政府においては清国を仮想敵国とする軍備拡張政策を取るようになり、民間においても、日清関係を日本の国益において対処しようとする動きが出てきて、これらの背景事情の下に、アジアの唯一の力である日本が独自の行動を採ることが正統であるとの論拠から出てきたのが、福沢の「脱亜論」であるという見解であると解される。

(4) また、前出の「福沢諭吉選集」第七巻(一九八一年)末尾の坂野潤治教授の解説は、「普通、福沢の国際政治論の変遷、もしくは福沢における民権と国権の比重の変化の軌跡は、明治八年の『文明論之概略』→明治十一年の『通俗国権論』→明治十四年の『時事小言』→明治十五年末の『東洋の政略果たして如何せん』→明治十八年の『脱亜論』の順序で説明される。矢印にしたがって彼の国際政治論における”力は正義なり”の比重が増え、また国権の民権に対する比重が高まってくるとされる」と紹介し、これらにおける論調の相異を検討するには「その時点で福沢が抱いていた状況構造の認識を知る努力が必要であると思われる」とし、明治八年ごろには、対外関係では条約改正と朝鮮・清国問題があり、明治政府内部には内治優先派と外征派との対立があって、『文明論之概略』が国の独立の重要性を強調し、欧米文明国によるアジア侵略の危険を強調したのは、殖産興業に着手できず財政上の困難を抱えていた内治優先派を擁護するものであり、また「外国交際の性質」を詳細に論じ、欧米文明国に対する過度の楽観をいましめると同時に攘夷論をしりぞけ、「国民の文明化」を「国の独立」の手段として正当化しているは、福沢が外征論によって盛り上るナショナリズムを条約改正論への支持に転換させ、ナショナリズムの高揚と殖産興業政策とを両立させようとしている、との解釈を示し、更に「通俗国権論」についても、その緒言の「内国に在て民権を主張するは、外国に対して国権を張らんが為なり」とか、終章の「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず、幾冊の和親条約は一筐の弾薬に若かず」という一節は「自然法的な世界像から弱肉強食の世界像への、また民権から国権への、福沢の転換を画するものとして重視されてきた」が、その総論における福沢の関心は「殖産興業と輸入超過の矛盾という西南戦争後の日本経済が直面していた難問を国民に説くことにあったように思われ」、その各論も「かなりのスペースは欧米人との交際における誤解を解くことにあてられ」、その際に排外主義と拝外主義の両極から生じる国益の損害が繰り返し強調され、欧米人との交易において卑屈、無智にならないようにという観点から「国権」が強調され、「西洋心酔の輩」が批判されているのである、と論じて、このような「国権」の強調は、当時の殖産興業―輸出の増大=輸入の防遏という経済政策と密接に関連するものであり、当時の明治政府の政策とも軌を一にすると指摘した上、このような『文明論の概略』と『通俗国権論』の論調は、その基本において「内治優先=殖産興業」政策の状況認識と一致していたが、明治一三年ごろにはこのような「内治優先=殖産興業」政策は完全に行き詰まり、政治状況の急転換を呼び、状況構造の大転換に直面した福沢は、明治一四年の『時事小言』において「富国」論から「強兵」論への転換、あるべき国民像を、欧米諸国民に対して自負心と警戒心を兼備して殖産興業に励む国民像から国家財政の困窮を自らの責任として率先して分担負担に応ずる国民像へと変化させたとし、更に『時事小言』においては朝鮮進出論を登場させ、「今西洋の諸国が威勢を以て東洋に迫る其有様は火の蔓延するものに異ならず。然るに東洋諸国殊に我近隣なる支那朝鮮等の遅鈍にして其勢に当たること能はざるは、木造板屋の火に堪へざるものに等し。故に我日本の武力を以て之に応援するは、単に他の為に非ずして自から為にするものと知る可し。武以て之を保護し、文以て之を誘導し、速に我例に倣て近時の文明に入らしめざる可らず。或は止むを得ざるの場合に於ては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。」とその論調を引用し、「このような朝鮮進出論を福沢が唱え出すにいたる原因の一つとして、これまで見てきたような福沢の内治優先=殖産興業論とそれを前提とした立憲制への漸進的移行論の行き詰りがあったことは容易に想像のつくところである」とし、「福沢が朝鮮改造に興味をもってもおかしくはないような日朝関係の変化が明治十三年ごろから起こって」おり、当時朝鮮では金玉均等の「開化党」の台頭があって、日本大使館などもこれに対して期待していたという背景があったとし、「仁川開港交渉で日本が加えた圧力が、予期に反して「斥論派(日本ト交際ヲ親密ニスルヲ排斥スル論者)の勢力を増大させ」、「主和論者(日本ト和親ヲ厚クセントスル論者)ノ勢難支」傾向が見えてきたのである。しかもこのような状勢の挽回をはかって日本がさらに圧力を加えれば、「斥論者ヲシテ我ニ背テ清国ニ向フノ辞柄」を与えるだけになる状況になってきた」という分析を紹介し、明治一四年の末ごろには、朝鮮国内では大院君派の反日勢力が再び力を増し、金玉均等の改革派の立場は極めて悪化していたが、そのような中で『時事小言』のアジア改造論が書かれたのであるとし、このような背景から「福沢の朝鮮改造論は、朝鮮国内の親日=改革派の勢力が後退すればするほど、露骨な武力干渉論とかわりないものになるという構造をもっでいた」ことを指摘しており、したがって、明治一五年七月二三日に勃発した朝鮮壬午の変から明治一七年一二月の甲申事変を経て、明治一八年三月に書かれた「脱亜論」における対外論は、『時事小言』の議論を「欧米列強の東アジア侵略に備えるために日本が清国と朝鮮を助けるという」「アジア改造論」の議論と理解すれば、「日本も欧米諸国の仲間入りをして東アジア分割に参加する以外にないという主張」に百八十度転換したように見えるが、この間の福沢の東アジア政策論は、ごく当然の変化を示しているにすぎ」ないとした上、これらの点を要約して「福沢は『時事小言』刊行の数ヵ月前に、朝鮮国内における「改革派」がきわめて前途有望に思えたときに、朝鮮の近代化を助けるという課題に強い興味を示した。しかし朝鮮国内における金玉均ら「改革派」の立場は福沢が『時事小言』を書くころまでには、きわめて悪化していた。このため福沢は、隣国の近代化推進者を支援するという民間思想家として何ら恥ることのない課題を乗り越えて、日本政府に、武力行使を含めた朝鮮内政改革派の援助を要求するという点にまで、『時事小言』を書いた時点で追い込まれていた。この立場は、明治十五年三月の「朝鮮の交際を論ず」という『時事新報』社説においても繰り返されている。しかるに事態は福沢にとってはさらに悪化し、十五年七月の壬午事変によって親日=改革派は政府の要職から排除されてしまった。このため福沢は朝鮮占領論かとも思われるような激越な干渉論を『時事新報』紙上で展開し、また同年一一月刊の『兵論』の中では対清開戦準備のための軍拡論を唱えるにいたったのである。さらに福沢は安南問題をめぐる清仏間の対立の中で、清国の弱体性が次第に明らかになると、一層積極的、具体的な内政干渉に干与し、金玉均ら親日=改革派が日本公使館と共謀して起したクーデター(甲申事変)にかなりな程度までコミットしていくのである。甲申事変が失敗して、改革派援助による朝鮮近代化=親日化政策が完全に失敗したことは、福沢にとっては、朝鮮問題に関する明治十四年初頭以来の状況構造が根底から変化したことを意味した。このとき福沢は、朝鮮国内の改革派を援助しての近代化政策をこれ以上追求することは無意味であることを宣言するために「脱亜論」を書いたのである。これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。」と論じていることが認められる。

右の論文によれば、福沢諭吉の対外政策論は、いずれも日本が当時置かれた国際状況又は当面していた外交内政問題など福沢の抱いた「状況構造」の変化に即応するものであり、「アジア改造論」ないし「朝鮮国内の改革派の援助」を志向する福沢の東アジア対外政策論から見れば、「脱亜論」の強攻策の論調は当然の変化としてその必然性を指摘することができるというのであるから、この見解では、「脱亜論」の背景は、直接的には壬午・甲申の事変ということができるものの、更に福沢自身の対アジア政策論から見れば「アジア改造論」等の東アジア対外政策論の挫折という「状況構造の変化」に関係する事情があるという考えに立つものと解される。

(5) 他方、甲六の一の八(安川寿之輔「増補日本近代教育の思想構造」新評論(一九九二年))、甲六の一の一〇及び一一と安川証人によれば、これとは別に、前記安川教授の学説における福沢諭吉に対する見解があることが認められる。この安川教授の学説は、安川証人によれば、本件検定が行われた平成四年以前から成立しており、すでに学界に登場していたものと認められるところ、この見解を要約するものとしては、右証人の供述により本件訴訟中に書かれたものであると認められるものではあるが、甲六の一の一〇の安川寿之輔「日清戦争とアジア蔑視思想―日本近代史像の見直し―」の原稿記述が最も適切であると考えられるので、専らこれによって右の安川教授の「脱亜論」の「背景事情」に関する学説を要約すれば、次のとおりである。

すなわち、① 丸山教授が提示した、『学問のすすめ』段階までの福沢の国際社会観は国際社会における国家平等観という「啓蒙的自然法を根底にして」いるが、『文明論之概略』を過渡期として彼の国際社会観は自然法思想から国家理由(レーゾン・デタ)の立場に根本的な旋回を示し露骨なマイト・イズ・ライトの主張に変化するという見取り図、あるいは『学問のすすめ』第三編の「一身独立して一国独立する事」の内容を「個人の自由独立と国家のそれ」を、民権論と国権論との「内面的連関」を最も鮮やかに定式付け両者の統一という「明治国家の背負った歴史的な課題を最も早く思想的に定式化した」ものという捉え方は、通説的地位を有しているが、この「一身独立して一国する事」の解釈は、福沢諭吉研究史上最大の誤読箇所である、すなわち、(1) 幕末から初期啓蒙期にかけての福沢諭吉の国際関係認識は、国家平等の「啓蒙的自然法」「萬国公法」の思想を十分に学びそれが欧米社会内で通用していることを承知しながらも、一貫して基本的にマイト・イズ・ライトであったこと、(2) 『学問のすすめ』第三編の「一身独立一国独立」の定式は、「一国独立」を至上自明の前提課題として設定するものであり、「一身独立」はその従属的・副次的課題にすぎないものとして扱われていること、(3) 『学問のすすめ』初編の福沢のナショナリズム論は、もともと郷土的愛国心であり、その国権的な一身「独立」論と論理的整合を見せていること、(4) 『学問のすすめ』第一二編として起草された「内は忍ぶ可し外は忍可からず」において、福沢は「上下同権の説を主張するは、‥詰る所は日本国中の人民をして共に国を守らしめんとして之を責るものなり、‥外国の強敵に抗せしむるの調練なり。」と述べていること、(5) 明治七年当時、「一国独立」確保のために、「専制の政府」への国民の服従の内面的自発性の喚起と納税協力を呼びかけていること、(6) 『学問のすすめ』初編において、福沢が「自然法」的国家平等観を展開したのは、福沢特有の「対症療法的見地から」「維新以後日が浅い当時において国内になお残存していた攘夷的思想への戒め」として書かれたものであること、(7) 以上のような『学問のすすめ』の内在的解釈は、同じ初期啓蒙期の代表作『文明論之概略』の示す日本の近代化の綱領的方針とも一致していること、などを指摘することができるとしている。② 次に、初期啓蒙期の福沢の思想は当時の「明治政府の思想」と一致しており、マイト・イズ・ライトの国際関係認識を前提とした国権論の立場に立っていたことを指摘し、その例証として、明治政府の内治先行論派が強行した一八七四年の台湾出兵に対して、福沢が同年一一月の『明六雑誌』に「遂に支那をして五〇万テールの償金を払はしむるに至たるは国のために祝す可し。‥誰か意気揚々たらざらん者あらん。余輩も亦其揚々中の人なり。」と書き、「抑も戦争は国の栄辱の関する所、国権の由て盛衰を致す所」であり、今回の「勝利に由て我国民の気風を一変し、始て内外の別を明にしてナショナリチ国体の基を固くし、此国権の余力を以て西洋諸国との交際上に及ぼし」、将来「西洋諸国と屹立」すべしと論じたことを紹介し、また、一八七五年の江華島攻撃を契機として朝鮮との間で不平等条約「日韓修好条規」を締結した際、福沢が書いた「郵便報知新聞」社説「亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説」は、「パワー・イズ・ライト」の考えに反対したものではなく、「パワー・イズ・ライト」の考えが一貫していることは、不平等条約を遠因として起こった一八八二年の壬午の軍乱と一八八四年の甲申事変の京城事変の際に、彼が強硬な朝鮮出兵要求キャンペーンの先頭に立ったことでも確認することができると論じている。③ 続く「福沢諭吉(近代日本)はなぜアジア侵略の道を辿ったのか」と題する章で、福沢諭吉がアジアへの蔑視=侵略の先頭に立つことになるのは、明治一五年七月の「壬午軍乱」と明治一四年一二月の「甲申事変」以来のことであるとして、その原因はその思想に内在すると考究するものであるが、自由民権運動に同調せず、国会開設時期尚早論を展開し、一八七八年の『通俗国権論』においては、「我日本の外国交際法は、最後の訴る所を戦争と定め」ることを提案し、「一国の人心を興起して全体を感動せしむるの方便は外戦に若くものなし。‥戦争の人心を感動して永年に持続するの力は強大なるものと云う可し」と述べ、『通俗国権論』第二編では戦争政策を「敵国外患は内の人心を結合して立国の本を堅くするの良薬なり」と言い、外国の内政糊塗策としての戦争政策を「人心を瞞着するの奇計」として紹介していることを指摘し、一九八一年の『時事小言』では「天然の自由民権論は正道にして人為の国権論は権道なり」「我輩は権道に従う者なり」と宣言しており、他国が「権謀術数を用れば我亦これを用ゆ」と述べるとともに「外の艱難を知て内の安寧を維持し、内に安寧にして外に競争す。内安外競、我輩の主義この四字在るのみ」と宣言するなど、安易な「外競」路線の権謀術数の道を選択したと論述している。④ 続く「朝鮮・中国への侮蔑・偏見・マイナス評価」の章では、福沢の思想を幕末時代から再検討しようとするものであるが、「江戸中の爺婆を開国に口説」くために書いたという「唐人往来」では、福沢はアヘン戦争の端緒を開いた林則除を「阿片を理不尽に焼き捨てた」と一方的に評価非難して、アジアの志士を「智慧なしの短気者」と罵っているとし、『学問のすすめ』第一二編として起草された遺稿中において、国家平等の萬国公法はヨーロッパ諸国の間では存在し得てもアジアでは無惨に蹂躙されていると福沢はリアルに認識しており、だからこそ、この現実に対処するために「弱小をして強大に当たらしむるの下た稽古」「外国の強敵に抗するの調練」として「一身独立」を強調したと述べていると指摘し、それ以後も福沢は、欧米帝国主義列強の武力侵攻を伴う強圧外交に対して「蟷螂の斧」を振るうアジア諸国民を一貫して「野蛮」「未開」「暴民」「土人」の行為として罵り続けたと指摘し、その意味では福沢諭吉は初期啓蒙期から「脱亜」の姿勢をとっていたのであり、後年彼が「脱亜論」を書いたのはごく自然の流れであったと言えると論じている。また、『通俗国権論』と『時事小言』における福沢の国際関係認識の在り方は「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず、幾冊の和親条約は一筐の弾薬に若かず」「各国交際の道二つ、滅ぼすと滅ぼさるるのみと云うて可なり」というものであって「専ら武備を盛にして国権を皇張する」強兵富国路線を提言しているとし、一八八二年三月末に朝鮮の元山津で日本人が襲われた出来事の際から『時事新報』の社説で「朝鮮人は未開の民なり。‥極めて頑愚‥兇暴」と論じ、同年七月に壬午軍乱が発生した際には中国を「東洋の老大朽木」呼ばわりして、出兵した日本兵が「真一文字に進て其喉笛」の北京に「喰付き」、「一撃の下に挫折」させることを要求しているとし、一八八四年の甲申事変に至るまでの間に、社説上で朝鮮人に対する「頑陋」「怯弱」「頑迷倨傲」「無気無力無定見」「儒教主義に飽満して腐敗」「無学の国民」「頼むに足らざる」「法外無類」「怯懦卑屈」「廉恥を軽んじ‥他人に奴隷視せられ又真に其奴隷と為るも、唯銭さへ得れば敢て憚るに非ず」「気楽無優なる、‥政府の廃絶を事ともせず、廉恥義気の外に安心」などという蔑視の表現を用いているとし、金玉均らの開明派がクーデターを企てた甲申事変が起こると、右社説において、連日「朝鮮事変」「朝鮮国に日本党なし」「我日本国に不敬損害を加えたる者あり」「朝鮮事変の処分法」「支那兵士の事は遁辞を設ける由なし」「軍費支弁の用意大早計ならず」「戦争となれば必勝の算あり」等と題する論説を掲載し、「朝鮮は固より論ずるに足らず、‥兵を派して朝鮮京城の支那兵を塵にし」、中国「に勝てば我日本国の国威忽ち東洋に耀くのみならず、遠く欧米列強の敬畏する所となり、治外法権の撤去は申すまでもなく、‥永く東洋の盟主として仰がるる」結果になるとの考えを抱き、「我輩の一身最早愛むに足らず、進んで軍に北京に討死すべし。我輩の財産最早愛むに足らず、挙げてこれを軍費に供すべし」と戦争遂行を求めて、東洋攻略キャンペーンの先頭に立ち、脱亜論発表の一か月前の明治一八年二月には「今度の朝鮮の事変こそ幸なれ、何卒此一挙に乗じて不調和の宿弊を一洗し去らん」と呼号し、「脱亜論」発表の一〇日後には「兵備拡張論」を発表して「今の世界は道理の世界なれば、国交際の急は百事道理を根本にして之を押し立て、‥理を先にして兵を後にす可しとあれども、是れは所謂書生論に非ざれば老大の臆病論にして、‥我輩の感服する能ざる所のものなり。」という認識を示していると論じている。また、「脱亜論」の後の明治一八年四月から八月までには「富国策」「朝鮮国の始末も亦心配なる哉」「英露の挙動、掛念なき能はず」「天津の談判落着したり」「天津条約」「日本兵去て在朝鮮日本人の安危如何」「仏清新天津条約」「巨文島に関する朝鮮政府の処置」と題する諸論説を見ると、「弱肉強食」の国際関係の中で日本の対外進出をいかに確保していくかに福沢諭吉の主要な関心が注がれていることは明らかである、と論ずるものである。

安川教授の右見解は、自認されているように、福沢の多数の論説自体を内在的に研究した結果であり、福沢の初期啓蒙期と呼ばれる時期から既にマイト・イズ・ライトの国際関係認識を前提とした国権論の立場に立っていたことを指摘するものであり、「脱亜論」の考え方は国際関係に対する認識からはごく自然な帰結であると理解するものと解される。したがって、この見解においては、強いて背景事情を挙げるならば、福沢自身のマイト・イズ・ライトの国際関係認識を挙げるのが適切ということになると解される。

(6) なお、学説ではないが、前記山川出版社「新詳説日本史改訂版」二六八頁は、背景事情の一つと考えられる「日本人のアジア観の変化」の柱書きの下で「壬午事変から甲申事変にかけての東アジア情勢の変化は、日本人のアジア観にも大きな影響を与えた。壬午事変以前には、欧米諸国の東アジア進出に対抗するために、日本は朝鮮・清国との連帯を強め、両国の近代化をたすけなければならないという主張がさかんに唱えられ、日本の朝鮮進出の必要性もこの観点から説かれることが多かった。しかし事変以後、日本の朝鮮進出をさまたげるものは欧米諸国ではなく、清国であることが明らかになると、この議論は説得力を失っていった。かわって日本は朝鮮の清国からの独立と近代化をたすけなければならないという議論と、アジアの日本と清国は朝鮮問題で争うべきではないという主張とがあらわれた。しかし甲申事変で日清関係が悪化し、また朝鮮国内での親日的な改革派が勢力を失うと、どちらの議論もなりたたなくなった。それにかわって、近代化の努力をしない国は欧米諸国によって分割されてもしかたがないが、日本だけは近代化を進めて独立をまもり、さらに欧米諸国とともに東アジアの分割に加わるべきであるという主張がさかんになった。この議論は「脱亜論」とよばれ、日清戦争の前後にもっともさかんであったが、日露戦争の前には日清提携論もふたたび強くなった。」という記述を掲げていることが認められる。この記述は、前出の池井教授の見解と坂野教授の論説の考え方にも概ね符合するものと解される。

(三) 学説状況に対する判断

(1) 以上の学説状況に鑑みると、「脱亜論」の「背景事情」に関して、①安川教授の所説は、「脱亜論」は初期啓蒙期から福沢にあった「マイト・イズ・ライト」の国際関係認識に立った国権優先論と強兵富国論あるいはアジア蔑視思想から自然に出てきたアジア植民地化政策論であり、これらの思想がその背景を成すとの見解であると解され、②池井教授の所説は、欧米諸国の圧倒的な圧迫の前に近代化を拒否する清韓両国に対して国内改革を促進させようという路線が壬午・甲申事変における親日派の敗北によってアジアの唯一の力である日本が独自の行動を採ることが正統であるとの論拠に変化したことが背景にあるとする見解であると解され(前出山川出版社「新詳説日本史改訂版」も概ね同旨)、③坂野教授の所説は、「時事小言」の「アジア改造論」の議論等から見ると壬午・甲申の事変を経て発表された「脱亜論」の考えは当然の変化であるが、「朝鮮近代化=親日化」政策が完全に失敗したことに対する「敗北宣言」であってこれらの「状況構造」の変化が背景にあるとする見解であると解され、④丸山教授の所説は、福沢が思想的又は実践的に関与していた朝鮮「開化派」の壬午・甲申事変における挫折に対する失望と憤激が背景にあるとするものと解される。

(2) これらの学説の視点は、右「背景事情」を福沢の思想自体から内在的に見ようとするものから、当時の「状況構造」ないし「事変」的要因を重視するものまで様々であるということができる。福沢の思想自体から内在的に見ようとする安川教授の見解からは、福沢には初期啓蒙期から「マイト・イズ・ライト」の国際関係認識論に立った国権優先論と強兵富国論あるいはアジア蔑視思想があるという研究結果の指摘があるが、その内「マイト・イズ・ライト」の国際関係認識論に立った国権優先論と強兵富国論が強まったという部分については、前出の坂野教授の論説にも同様の指摘があると考えることができ、池井教授の前記論説中にも「たとえば坂本龍馬、福沢諭吉等は万国公法(国際法)によって欧米列強とも対等のつき合いができる、あるいはまた、国際場裡において対等の一国としての待遇を受けることを期待した。しかしながら、彼らによって課された条約が著しい不平等の側面を持っており、日本の改正要求に簡単に応じようとはしないその姿を見るにつけ、国際情勢は力関係によって決まることを知らされたのである。」という部分があり、丸山教授の前記「「福沢諭吉と日本の近代化」序」の中にも、「もちろん、このことは、福沢の「思考方法」には歴史的条件による制約がない、という意味ではなく、また福沢の作品は彼の置かれた時代的な状況と無関係に「抽象的」に思弁した産物である、ということを毛頭、意味しない。福沢が成人し、活動した時代は、西洋(アメリカとツァーリスト・ロシア帝国を含む)が圧倒的な産業力と軍事力をもって、東アジアに殺到し、しかもこれに対して、東アジアでは長い伝統的背景をもった旧体制と旧支配権力の権威が音を立てて、瓦礫のように崩壊しつつあり、そこに巨大な真空状態が生まれ、広がりつつある時代であった。福沢が繰り返し強調しているように、この十九世紀以来の西洋の圧力は、かって十五、十六世紀にスペイン、ポルトガルが来航した時代とまったく情勢が異なるだけでなく、イギリスの東印度会社経営に代表されるような、長期にわたる「西力の東漸」のたんなる延長とも見なしえないような、まったく新しい世界史的事態の出現であった。」「それは単に狭い意味での軍事的侵略というイメージではとうてい捉えることができない性質のもので、政治・経済から文化・教育に及ぶ、社会の全領域に浸透する巨大なエネルギーを内包していた。そういうエネルギーの殺到に直面したところに、日本、中国、朝鮮に共通した東アジアの深刻な危機が存したのである。福沢に限らず、この危機を直視し、その重大性を洞察する能力をもった、上の三国における優れた知識人たちは、それぞれ彼らの全精力を傾けて、それぞれの祖国を救うための思想的課題は何か、を問いつづけたのである。こうした知的活動がどうして現実から離れた抽象的思索であり得ようか。この書の主たる対象である福沢についていうならば、彼はまさにその危機の深さと広さを感じ取ったからこそ、たんに個別的問題と個別的処理をこえて、またたんに法的政治的制度の革新に甘んぜずに、大胆な知的勇気を必要とする「精神革命」の途を提唱したのである。」という論述があるから、福沢が安川教授の指摘する初期啓蒙期から「マイト・イズ・ライト」の国際関係認識論に立った国権優先論と強兵富国論に立つようになったという部分は、当時の西欧諸国の対外政策のありように応じて形成されていったものであるという限定が加われば、概ね学説の一致があるとも考えられるが、「脱亜論」に関しては、初期啓蒙期から福沢に見られる「マイト・イズ・ライト」の国際関係認識論に立った国権優先論と強兵富国論あるいはアジア蔑視思想から「自然に」出てきたものという安川教授の学説に、他の学説が直ちに同意するとは必ずしもいえないと考えるのが相当である。

(3) したがって、「脱亜論」の「背景事情」に関しては、福沢の対外認識に基づく国権優先論、強兵富国論、対アジア蔑視観から自然に出てくる議論であるという学説と朝鮮国内の対立ないし親日派の敗北の後の朝鮮を巡る日清両国の対立状況という外的要因を重視する学説との間には、一応見解の対立があると認められ、これらの学説の対立状況については、本来それぞれ各学界において判断すべき問題であって、行政庁あるいは裁判所において、当否は無論のこと優劣をもにわかに判断することができるものではないことは明らかである(裁判所法三条参照)。

(四) 「背景事情」の考慮を要求した検定意見に対する評価

(1) ところで、「テーマ(8)」における「脱亜論」の扱いは、前記注②の記述内容と「脱亜論」抜粋文の掲載の状況に照らすと、入江証人が供述するように、原文記述は何らの限定を付けず背景事情を記載するものでもないから、福沢の思想から自然に出てくるものであるという前記安川教授の学説に近い考え方によって執筆されているものと推認されるが、この考え方に対しては、前記認定のとおり、当時の国際情勢の在り方から朝鮮を巡る日清両国の対立状況までのやや広い背景事情に言及する学説と、甲申事変により朝鮮「開化派」の敗北に対する福沢の失望、挫折感又は憤激というやや狭い直接的な背景事情を重視する学説などがあるのであり、いずれの学説が優勢であるかは文部大臣においてもこれを判断することはできない性質のものであるから、その対立状況をそのまま承認して検定意見を形成する以外にないというべきである。

(2) その見地で見ると、文部大臣の検定意見は、「背景事情をも考慮して記述を再考する必要がある。」というものであり、必ず特定の背景事情を書くべきである、というものではないから、右の学説状況の対立において一方の学説のみに立脚した検定意見であると評価することはできないと考えられる。

6 「脱亜論」に関する検定意見の適法性

(一) 以上見てきたとおり、注②の記述と「脱亜論」引用文掲載において、まず、「脱亜入欧」が「脱亜論」の主張の要約である」とする原稿記述については、学説が必ずしも一致しているとはいえず、また、「脱亜入欧」は「脱亜論」の主張を要約した成句で「欧米を手本とした近代化を最優先し、そのためには、欧米諸国同様に、アジア諸国を処分(植民地化)すべきだというもの。」という原稿記述についても学説の対立があるということができ、「脱亜論」の「背景事情」の有無とその内容についても学説の不一致があると認められる。

(二) 前記認定のとおり、文部大臣は、これらの学説状況を概ね把握した上で、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」中の「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に該当すると判定して、「テーマ(8)」の原稿記述においては「「脱亜論」の扱いが一面的であるので、それが書かれた背景事情をも考慮して記述を再考すべきである。」という検定意見を通知したと認められるところ、前記認定の各点における学説状況に関する各認定に照らせば、文部大臣においては、各学説状況の把握に関する認識判定に誤りないし不当があるとはいえず、その認識判定に立って右の検定基準の「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に当てはまると判定したその判断過程に誤りないし看過し難い過誤があるとはいえない。

したがって、右検定意見の通知に関して、文部大臣がその裁量権の範囲を逸脱したと認めることはできず、右検定意見の通知を違法と認定することはできない。また、前述した意味において裁量権行使の際の制約に違反する裁量権の濫用があったということもできない。

三  「勝海舟の「氷川清話」の引用文も含めて、前後を端折って、都合の良いところだけを抜き出した感があるので、再検討をしていただきたい。」という検定意見の違法性について

1 検定意見の内容と当てはめ判定

右の検定意見は、前記認定のとおり、「「脱亜論」に関するものも含めて、「氷川清話」の抜粋文は都合の良いところだけを抜き出したものであるから、再検討すべきである」というものであったと認められるが、前記「指摘事項一覧表」の記載、右の検定意見の内容、通知に際しての入江調査官の前記認定の発言を総合すれば、右検定意見は、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」の「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に該当するものとして通知されたと認められ、右のような理解は、検定基準の「選択・扱い及び組織・分量」の細項目内容を理解している被通知者には容易にこれを行うことができたと認められる。

2 「脱亜論」について

ところで、右検定意見は、「脱亜論」の扱いに対しても述べられていたと認められるからここで判断するに、右の検定意見は、「前後を端折って、都合の良いところ抜き出した感がある」というものであるが、これを「背景事情を考慮することなく、都合の良いところだけを抜き出し、一面的になっている」という趣旨と理解することもできるのであって、「脱亜論」に対する前述の「「脱亜論」の扱いが一面的であるので、背景事情をも考慮して、記述を再考すべきである。」いう検定意見と概ね同じ趣旨であると理解することができる。したがって、前記認定のとおり、右検定意見は適法と認められるのであるから、「脱亜論」に関しては、前述した理由と同じ理由により、「前後を端折って、都合の良いところだけを抜き出した感があるので、再検討をしていただきたい。」という検定意見も適法と認めるのが相当である。

3 「氷川清話」引用文について

(一) そこで、「氷川清話」の右引用文に対する右検定意見の適否について判断するに、その内容は、前記のとおり、「朝鮮は昔お師匠様 勝海舟(1984年」という表題の下に、「朝鮮といえば、半亡国だとか、貧弱国だとか軽蔑するけれども、おれは朝鮮も既に蘇生の時期が来て居ると思うのだ。…朝鮮を馬鹿にするのも、ただ近来の事だヨ。昔は、日本文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからノー。特に土木事業などは、尽く朝鮮人から教わったのだ。いつか山梨県のあるところから、「石橋の記」を作ってくれ、と頼まれたことがあったが、その由来記の中に「白衣の神人来りて云々」という句があった。白衣で、そして髯があるなら、疑いもなく朝鮮人だろうヨ。この橋が出来たのが、既に数百年前だというから、数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だったのサ。」というものである。

(二) 小林証人と甲六の一の七によれば、今日刊行されている「氷川清話」は勝海舟の長年に亘る談話を吉本襄が編纂した「海舟先生氷川清話」に基づいて更に編纂されたものであり、右の引用文は、明治二七年四月の日清戦争が始まる直前の談話であったことが認められる。

また、右甲六の一の七によれば、引用文中の中略部分「…」には、「およそ全く死んでしまふと、また蘇生するといふ、一国の運命に関する生理法が世の中にある。朝鮮もこれまでは、実に死に瀕して居たのだから、これからきつと蘇生するだらうヨ。これが朝鮮に対するおれの診断だ。しかし」という文章が存在していたことが認められるが、その文意は、前記引用文中の冒頭部分に対して補充又は補足となるべき説明であると見ることができるから、紹介の方法として右のような中抜きをしたこと自体に特段の不当はないと解される。

4 検定意見の指摘の適否

(一) 右引用文に対する文部大臣の検定意見は、「前後を端折って、都合の良いところだけを抜き出した感があるので、再検討をしていただきたい。」というものであるが、入江証人によれば、「氷川清話」中には豊臣秀吉の朝鮮出兵を容認するような記事があり、このような記事を抜きにして「朝鮮は昔お師匠様」の部分のみを引用することは適切とは言えないというのが右検定意見の主たる理由であったことが認められる。

(二) 右のような入江調査官の指摘に関連するものとしては、乙六の一の五によれば、「日本の名著」中央公論社(昭和五三年)中の「氷川清話」の中に「殖民論」の表題の下で、「近頃は、殖民論が大繁昌の様子だが、古人は黙っていてもその実を行い、今人はやかましくいっても口ばかりだから困るヨ。朝鮮征伐の時に、小西行長が、日本一の猛将加藤清正と競争して、少しも後れをとらなかったのは、全体行長は、堺浦の木薬屋で、手代がたくさん朝鮮におって、至る処、形勢は明らかに聞くことができ、またその手代どもが、土人を導いて行長に従わせたからだ。行長も感心な男サ。」という談話記事があることが認められるから、入江証人の供述する「朝鮮出兵を容認するような記事」とは右「殖民論」の右の記述部分を指すものと推認される。しかしながら、右認定部分の談話は、小西行長が朝鮮在住のかつての手代たちから情報を入手し、その手代たちが組織した現地朝鮮人の集団を自分の軍に組み入れて戦果をあげた事実を上げ、行長が加藤清正に後れをとらなかったとしてこれを賞賛するものであると解されるのであり、その賞賛の対象は、行長が日本一の猛将加藤清正に後れをとらなかったこと(あるいは情報収集力又は組織力に優れていたこと)、及び古人(行長)が植民論の議論ばかりに終始しないで黙って実行をしたことにあると理解されるのであり、秀吉の朝鮮出兵そのもの、又は明治期における植民論そのものを容認した議論であるとまでは必ずしも理解することができない。また、右の談話の趣旨を見れば、勝海舟が約三〇〇年前の故事を挙げて論じたのは、当時の盛んであった植民論の欠陥等を批判しようとする観点があったと解されるのであり、原告が「テーマ(8)」で引用した「朝鮮人は昔お師匠様」の談話の趣旨とは必ずしも矛盾するものではないと考えられる。

(三) また、右のとおり、右「殖民論」の中では現地の朝鮮人を「土人」と表現していることが認められるが、右の表現が用いられていることのみで、直ちに勝海舟の考えや思想を判定することができるものではないと考えられるから、このことも、右の判断を左右するものではない。

(四) 更に、乙六の一の五によれば、「氷川清話」の中には、「世界の大勢と国家教育」と題する項において「世界の大勢につれて、東洋の風雲がいよいよ急になってきたから、われわれ日本人たるものは、深く注意してこれに処する方法をこうじなくってはならない。それには少なくとも、これまでのような偏狭な考えを捨てて、亜細亜の舞台に立って世界を相手に、国光を輝かし、国益をはかるだけの覚悟が必要だ。」という記述があることが認められ、被告は、この記述についても、引用文との間に矛盾があるという趣旨の主張をするが、右の「世界の大勢と国家教育」の記述は「亜細亜の舞台に立って」世界を相手に、国光を輝かし、国益を図る覚悟が必要だというのであるから、「朝鮮は昔お師匠様」の引用文の趣旨とはやや異なるということもできるが、世界の大勢と東洋の風雲に対して「日本人たるものは、深く注意してこれに処する方法を」講ずべきであり、「少なくとも、これまでのような偏狭な考えを捨てて」、亜細亜の舞台に立って世界を相手に、国光を輝かし、国益を図るだけの「覚悟」の必要を説くものであり、全体の文意は、対外情勢に対処する日本人の心構えないし気概の必要などを説いたものと解されるのであって、ここから、直ちに勝海舟のアジア観なり、対外政策の基本等を判断することができるほどの議論であるとは認められない。したがって、「世界の大勢と国家教育」と題する項における記述が前記「朝鮮は昔お師匠様」の記述と矛盾しているとにわかに判定することはできないというべきである。

5 学説状況の検討

このようにして、「氷川清話」中に「テーマ(8)」の引用文と齟齬する部分があるとする入江証人の証言は採用することができない。

ところで、甲六の一の一四によれば、松浦玲「明治の海舟とアジア」岩波書店(一九八七年)において、松浦玲教授は、明治時代における勝海舟は、もともと蘭学者であったにもかかわらず同時代の日本人と異なり、ヨーロッパ文明とヨーロッパ国家を是認せず日本がそれに追従することに批判的であって、福沢諭吉の「脱亜論」との対比でいえば、海舟の考えはアジアに踏みとどまるというものであったという研究成果を発表していることが認められる。この学説によれば、「テーマ(8)」の「氷川清話」の前記引用文は、勝海舟のアジアに関する基本的な考えに即したものであったと考えられるが、この松浦教授の学説見解に対立するような学説の存在を認めることができるような証拠は提出されていない。

6 検定意見の検討

してみると、「氷川清話」の前記引用文「朝鮮は昔お師匠様」の内容は、勝海舟の基本的な考え方ないし思想に即するものであったとするのが、この点に関する学説状況であったと認められる。そうすると、右の引用文の掲載について、文部大臣が「前後を端折って、都合の良いところだけを抜き出した感があるので、再検討すべき」との検定意見を形成するについては、勝海舟の思想ないし考え方に関する学説状況の把握が不十分であり、学説状況に対する判断を誤ったものといわざるを得ない。

したがって、右の学説状況の不十分な把握とこれに対する判断の誤りに基づいて、前述の「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に該当するものと判定した検定意見の通知には、検定基準に対する当てはめ判断に看過し難い過誤があるというべきであり、文部大臣には、その裁量権の範囲を逸脱した違法があるということができる。もっとも、右のような判断の誤りをもって、前述の意味での裁量権の行使に際しての制約に違反したとまではいえず、この点では裁量権の濫用があったと認めることはできない。

7 以上によれば、右の「前後を端折って、都合の良いところだけを抜き出した感があるので、再検討をしていただきたい。」という検定意見の通知は、「氷川清話」の前記引用文との関係では、違法と認められる。

四  「考えてみよう1は、高校生の課題としては無理があるから、掲載した資料の扱いとの関連で再検討していただきたい。」という検定意見の適法性について

1 検定意見の内容と当てはめ判定

前記認定のとおり、「考えてみよう1」は「福沢諭吉と勝海舟とでは、アジアに対する見かたが、どのようにちがっているか。また、どうしてそのようにちがってしまったのだろうか。」という設問記述であり、この点に対する文部大臣の検定意見は、「考えてみよう1は、高校生の課題としては無理があるから、掲載した資料の扱いとの関連で再検討していただきたい。」というものである。

前記「指摘事項一覧表」の記載、右の検定意見の内容、通知に際しての入江調査官の前記認定の発言を総合すれば、右検定意見は、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」の「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に該当するとの判定の下で通知されたものと認められ、右のような当てはめ判定についての理解は、「選択・扱い及び組織・分量」の細項目を理解している被通知者には容易にすることができたと認められる。

2 原稿記述の趣旨

前記認定のとおり、福沢諭吉の「脱亜論」は「テーマ(8)」の本文記述中「脱亜入欧」の説明から出発し「脱亜論」原文の前記抜粋文掲載に至っているのであるが、勝海舟の「氷川清話」からの抜粋文の掲載は、「脱亜論」抜粋文と対比される形式であり、これに付された注⑥において、勝海舟が征韓論が勢いを増したのに対して日本が渡来人の時代以来繰り返し朝鮮から文化を吸収してきたことを指摘したと説明するものである。「脱亜論」に関する原告の記述の趣旨と右「氷川清話」の抜粋文の内容から見ると、原稿記述は、植民地政策論に立つ「侵略的」な福沢諭吉のアジア観と「氷川清話」の右抜粋文にみられるような勝海舟のアジア観とを対比させ、かつ、その形成の原因をも問うものであるということができる。

3 「脱亜論」のアジア観の形成「原因」について

ところで、前記認定のとおり、福沢諭吉の「脱亜論」については、その解釈から「背景事情」に至るまで、学説上の対立があることが認められるから、福沢が「脱亜論」において主張するような思想ないし考えを抱くに至った原因に対する理解についても、学説状況は一様ではないと考えられる。すなわち、①安川教授の所説においては、「脱亜論」は初期啓蒙期から福沢にあった「マイト・イズ・ライト」の国際関係認識論に立った国権優先論と強兵富国論あるいはアジア蔑視思想から自然に出てきたアジア植民地化政策論であるから、福沢の思想自体に原因が内在するということになるものと推測され、②池井教授の所説では、欧米諸国の圧倒的な圧迫の前に近代化を拒否する清韓両国に対して国内改革を促進させようという路線が壬午・甲申事変における親日派の敗北によってアジアの唯一の力である日本が独自の行動を採ることが正統であるとの論拠に変化したことが原因であるということになるであろうし、③坂野教授の所説では、朝鮮の壬午・甲申事変における「親日=改革派」の挫折により「時事小言」に現れたような「アジア改造論」又は「朝鮮近代化=親日化」政策が完全に失敗したという「状況構造」の変化に原因があるということになると考えられ、④丸山教授の所説においては、福沢が思想的又は実践的に関与していた朝鮮「開化派」の壬午・甲申事変における挫折に対する失望と憤激が直接的な原因ということになるものと推測されるのである。

4 勝海舟のアジア観の形成「原因」について

一方勝海舟については、松浦玲教授の前述の研究によれば、勝海舟はもともと蘭学者であったにもかかわらず同時代の日本人と異なり、ヨーロッパ文明とヨーロッパ国家を是認せず、日本がそれに追従することに批判的であって、福沢諭吉の「脱亜論」との対比でいえば、海舟の考えはアジアに踏みとどまるというものであったというのであるから、福沢の「脱亜論」におけるアジア観とは異なる観点を有していたものと推認することができるが、それが形成された原因については、学説がどのように解しているかを認定すべき証拠はない。

5 対比の困難性

したがって、以上の認定によれば、福沢諭吉と勝海舟の対アジア観の相異を一応認めることができるから、原稿記述の「考えてみよう 1」が「福沢諭吉と勝海舟とでは、アジアに対する見かたが、どのようにちがっているか。」という問いを発したことには特に無理があるとはいえないが、続いて「また、どうしてそのようにちがってしまったのだろうか。」というそれぞれのアジア観の形成原因を問いかけようとすることは、前記認定のとおり、学説が必ずしも一致しない事項と、学説が解明しているか必ずしも明らかでない事項に関するものであって、高等学校の生徒に対する教科書として適切とはいえないと考えるのは、むしろ自然な考慮であると認められる。すなわち、福沢諭吉における原因については学説も多様に分かれている分野であり、勝海舟については学説の探求が行われているということを認定するに足りる証拠がないのである。

6 そうすると、「考えてみよう1」における「福沢諭吉と勝海舟とでは、アジアに対する見かたが、どのようにちがっているか。また、どうしてそのようにちがってしまったのだろうか。」という設問記述に対して「高校生の課題としては無理があるから、掲載した資料の扱いとの関連で再検討していただきたい。」という検定意見は、これに関する学説状況に照らして、不当なものということはできず、右原稿記述が検定基準の前記「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に抵触するとの判定の下で通知された右検定意見には、看過し難い過誤があるとはいえず、文部大臣にその裁量権の範囲を逸脱した違法はないと認められる。また、前述の意味において裁量権を濫用したということも、これを認めることはできない。

五  注⑤の前段に対する「掃海艇派遣は、湾岸戦争終了の後に、我が国の船舶の航行の安全を図るために派遣されたものであるという時期、目的の記載がなく、これを書き込む修正を行う必要がある。」という検定意見の適法性について

1 検定意見の趣旨と当てはめ判定

「テーマ(8)」の注⑤は、本文の「一九九一年の掃海艇派遣問題⑤などで、内外に議論がおこっている。」の「掃海艇派遣問題」に付されたもので、その記述は、「湾岸戦争中に設置されたペルシア湾内の機雷を除去するために、海上自衛隊の掃海艇が急きょ派遣された。東南アジア諸国からは、派遣を決定する以前に意見を聞いてほしかったとする声があいついで出された。」というものである。

主としてこの前段部分に対して通知された文部大臣の検定意見は、「掃海艇派遣は、湾岸戦争終了の後に、我が国の船舶の航行の安全を図るために派遣されたものであるという時期、目的の記載がなく、これを書き込む修正を行う必要がある。」というものであるが、前記「指摘事項一覧表」の記載、右の検定意見の内容、通知に際しての入江調査官の前記認定の発言を総合すれば、右検定意見は、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」の「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に該当するとの判定の下で通知されたものと認められ、右のような判定に対する理解は、「選択・扱い及び組織・分量」の細項目を理解している被通知者には容易であったと認められる。

入江証人によれば、右検定意見の趣旨は、右の本文の中の「平和主義を基本としているが、」の「が」が逆接であるので、これに続く「教科書問題」「昭和天皇の大喪の礼の代表派遣」「掃海艇派遣問題」が平和主義に反する問題であるかのように読めるので、「掃海艇派遣」に対する説明としては、湾岸戦争終了の後に、我が国の船舶の航行の安全を図るために派遣されたものであるという時期、目的の記載が必要である、というものであったと認められる。

2 本文中の「が」の解釈

そこで、まず、本文の右部分の「が」を逆接と読むべきか否かについて検討する。なお、右「が」については、前記認定のとおり、文部大臣によって別個の検定意見として通知されたと認められるが、原告は、この検定意見に対しては違法の主張をしていないと解されるから、この点は判断しない。しかし、注⑤に対する右の検定意見は、この「が」を逆接として理解することによって成り立っているものと解されるので、注⑤に対する検定意見の違法適法の判断に必要な限りで、右「が」に対する文部大臣の見解の当否についても判断を加えることとなる。

そこで検討するに、右の接続詞「が」が逆接であるか順接であるかは、この「が」の前後の文脈で判断するのが相当である。そうすると、この「が」の前の文は、日本が平和主義を基本とする旨をいうものであり、「が」の後の文は「教科書問題」「昭和天皇の大喪の礼の代表派遣」「掃海艇派遣問題」を掲げ、「内外に議論がおこっている。」とするものであるが、この後に挙げられた事項はいわゆる平和主義に逆行する問題ではないかとして一般に議論されていると考えられる。そうすると、「が」を順接として読み込むことは一般の理解からはやや遊離するというべきであり、逆接として読む方が前後の意味を取り易いという関係にあると認められる。したがって、「が」は逆接として読むのが自然であって、「が」の後に掲げられた「教科書問題」「昭和天皇の大喪の礼の代表派遣」「掃海艇派遣問題」は、平和主義に反する問題であるとして議論されているいう理解でこの文を読み取るのが相当であると考えられる。したがって、この点を指摘する前記検定意見の文意理解が不当であるとはいえない。

そうすると、前記本文記載は、日本は平和主義を基本としているが、にもかかわらず「掃海艇派遣問題などで議論が」生じているという文意で理解すべきこととなるが、注⑤に対する前記検定意見の趣旨は、入江証人によれば、掃海艇派遣の時期、目的を記載させることにより、平和主義に反する問題であるかのような文意理解を是正し、バランスを取ろうとするものであったと認められる。

3 掃海艇等の派遣の実状

そこで、掃海艇の派遣が平和主義に反するという文意を是正しようとすることが相当であるか否かについて検討するに、甲六の二の六、三一、乙六の二の一と入江証人によれば、政府は、平成三年四月二四日の安全保障会議と閣議で、「自衛隊法(昭和二九年法律第一六五号)第九九条の規定に基づき、我が国船舶の航行の安全を確保するために、ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理を行わせるため、海上自衛隊の掃海艇等をこの海域に派遣する。」旨の決定を行い、同日政府声明を発表し、「1 昨年八月二日のイラクのクウェイトに対する不法な侵入及びその併合に始まった湾岸危機については、イラクが正式停戦のため国際連合安全保障理事会決議六八七を受諾したことに伴い、正式停戦が成立した。ペルシャ湾には、この湾岸危機の間に、イラクにより多数の機雷が敷設され、これらがこの海域における我が国のタンカーを含む船舶の航行の重大な障害となっている。このため、米国、英国、フランス、ドイツ、ベルギー、サウディ・アラビア、イタリア及びオランダは、掃海艇等を派遣し、機雷の早期除去に努力しているところであるが、なお広域に多数の機雷が残存しており、これらの処理を終えるには、相当の日月を要する状況にある。2 (中略)この海域における船舶の航行の確保に努めることは、今般の湾岸危機により災害を被った国の復興等に寄与するものであり、同時に、国民生活、ひいては国の存立のために必要不可欠な原油の相当部分をペルシャ湾岸地域からの輸入に依存する我が国にとって、喫緊の課題である。(中略)4 今回の措置は、正式停戦が成立し、湾岸に平和が回復した状況の下で、わが国船舶の航行の安全を確保するため、海上に遺棄されたと認められる機雷を除去するものであり、武力行使の目的をもつものではなく、これは、憲法の禁止する海外派兵に当たるものではない。(後略)」という見解を公表したこと、右政府決定により、海上自衛隊の掃海艇等が同年四月二六日に日本を出発した後、同年八月二六日ごろ右の機雷除去作業を終了した上、帰国の途についたことを認めることができる。

この点に関して、原告は、甲六の二の一ないし二二の当時の各新聞の報道記事又は解説記事等を提出するが、いずれも、右認定の政府声明の「1」及び「2」にいう事実関係を覆すものではなく、他に右の事実関係の認定に反する証拠はない。

4 検定意見の適否

そうすると、右認定の事実関係の下では、政府が平成三年四月にペルシャ湾海域の機雷除去の目的のために行った海上自衛隊の掃海艇等の派遣は、原告が前記本文において記述したような憲法上の平和主義に反する疑いないし印象を生じさせる性質のものであったとは必ずしもいうことができないと考えられる。

ところで、前述の「戦後、日本は平和主義を基本としているが、(中略)一九九一年の掃海艇派遣問題⑤などで、内外に議論がおこっている。」という本文記述は、その記述自体に特に誤りはないとしても、その文意を考察すれば、一般的には、平和主義を基本としているにもかかわらず、一九九一年に行われた掃海艇等の派遣は、平和主義に反するという議論の対象になるものであるという文意で読まれる蓋然性が高いと認あられるから、注⑤に適切な説明がないときは、これは、平和主義に反するものであったとの理解が生じ得るものであると考えられる。したがって、教科書調査官が右の記述について、前記検定基準「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」に抵触するという判定をしたことには、判断の誤りがあるということはできない。

したがって、前記検定基準に照らして、注⑤の記述に対して「掃海艇派遣は、湾岸戦争終了の後に、我が国の船舶の航行の安全を図るために派遣されたものであるという時期、目的の記載がなく、これを書き込む修正を行う必要がある。」という検定意見を通知したことにつき、看過し難い過誤があるということはできず、文部大臣に裁量権の範囲の逸脱の違法があるということはできない。また、前述の意味おいて裁量権の濫用の事実があったと認めることもできない。

六  注⑤の後段に対する「掃海艇派遣に関して東南アジア諸国の意見を聞くべきかは疑問であり、原文記述はやや低姿勢であるから、見直しの必要がある。」という検定意見の違法性について

1 検定意見の趣旨

注⑤の後段の記述は「東南アジア諸国からは、派遣を決定する以前に意見を聞いてほしかったという声があいついで出された。」というものであり、これに対する文部大臣の検定意見は、「掃海艇派遣に関して東南アジア諸国の意見を聞くべきかは疑問であり、原文記述はやや低姿勢であるから、見直しの必要がある。」というものであったことは、前記認定のとおりである。

2 実状の検討

そこで検討するに、原告提出の甲六の二の一四ないし一九、甲六の二の二三、二五、二六、三七、三八と原告本人によれば、右海上自衛隊の掃海艇等のペルシャ湾海域に対する派遣に対しては、東南アジアからこれを懸念する意見が出され、その中には事前に東南アジア諸国の意見を聞くべきであったという趣旨のものも含まれていたから、注⑤の「東南アジア諸国からは、派遣を決定する以前に意見を聞いてほしかったという声があいついで出された。」という記述は、必ずしも事実に反するとは認められない。

しかしながら、前記認定のとおりの政府声明のいう事実関係の下においては、右掃海艇等の派遣は、必ずしも憲法上の平和主義に反する疑いないし印象を生じさせる性質のものではなかったと認められるから、文部大臣において「東南アジア諸国の意見を聞くべきかは疑問であ」るとする検定意見部分は、右の実状の認定に照らせば、全く根拠がないとはいえない。しかしながら、この検定意見は、「原文記述はやや低姿勢であるから」という理由で「記述を修正すべきである。」としているのであり、次に述べるとおり、その趣旨が不明確であるというべきである。

3 検定意見の根拠に対する検討

(一)  すなわち、ここでいう「低姿勢」を、当然東南アジア諸国に対する対外的姿勢であると解するとすれば、前記の検定基準中には、政治的、宗教的な公正性又は中立性を要求するものはあるが、東南アジア諸国その他の外国に対する記述の「姿勢」の在り方を要求するものは見当たらない。したがって、記述についてその「姿勢」の在り方を理由に検定意見を通知することは、検定基準に基づかない検定意見の通知ということになり、これを適法と認めることはできない。

(二) もっとも、右の「低姿勢」の意味を、同じ「テーマ(8)」の中に掲載された「ASEAN諸国における対日世論調査」の結果と符合しない記述となっているという趣旨であるとすれば、なお、その当否について検討する余地がある。

すなわち、「テーマ(8)」において掲載された右の「対日世論調査」は、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの五か国における日本に対する意識調査の結果を掲載するものであるところ、これによれば、日本の「悪い面を忘れることができない」とするのが、インドネシアにおいては、一九八三年が二七パーセント、一九八七年が三六パーセントであり、マレーシアにおいては、一九八三年が二七パーセント、一九八七年が二五パーセントとなっており、フィリピンにおいては、一九八三年が二〇パーセント、一九八七年が三五パーセントであり、シンガポールにおいては、一九八三年が二九パーセント、一九八七年が二五パーセントであり、タイにおいては、一九八三年が二三パーセント、一九八七年が二九パーセントとなっているから、一九八七年のインドネシアとフィリピンを除いていずれも二割台であるのに対して、「今となっては気にしない」とするのが、インドネシアにおいては、一九八三年が二八パーセント、一九八七年が三六パーセントであり、マレーシアにおいては、一九八三年が四二パーセント、一九八七年が四二パーセントとなっており、フィリピンにおいては、一九八三年が四一パーセント、一九八七年が五四パーセントであり、シンガポールにおいては、一九八三年が三四パーセント、一九八七年が三七パーセントとなっており、タイにおいては、一九八三年が三二パーセント、一九八七年が四〇パーセントであって、いずれの国においても、またいずれの年においても、「今となっては気にしない」とする意見は「悪い面を忘れることができない」を下回ることはなかったことが認められる。

更に「気にしたことがない」とするものをみると、インドネシアにおいては、一九八三年が三六パーセント、一九八七年が二七パーセントであり、マレーシアにおいては、一九八三年が二五パーセント、一九八七年が二八パーセントとなっており、フィリピンにおいては、一九八三年が三六パーセント、一九八七年が七パーセントであり、シンガポールにおいては、一九八三年が二九パーセント、一九八七年が三〇パーセントとなっており、タイにおいては、一九八三年が二七パーセント、一九八七年が二六パーセントであるから、「今となっては気にしない」と「気にしたことがない」の合計の割合を見てみると、インドネシアにおいては、一九八三年が六四パーセント、一九八七年が六三パーセントとなり、マレーシアにおいては、一九八三年が六七パーセント、一九八七年が七〇パーセントとなり、フィリピンにおいては、一九八三年が七七パーセント、一九八七年が六一パーセントとなり、シンガポールにおいては、一九八三年が六三パーセント、一九八七年が六七パーセントとなり、タイにおいては、一九八三年が五九パーセント、一九八七年が六六パーセントとなるのであって、いずれの国においても、またいずれの年においても、「悪い面を忘れることができない」の割合をはるかに超えていると認めることができる(その余は「わからない」とするもの。)。

したがって、これらの対日世論調査の結果を考えると、注⑤後段の「東南アジア諸国からは、派遣を決定する以前に意見を聞いてほしかったという声があいついで出された。」という記述は、それ自体が事実に反しているということはできないものの、東南アジア諸国の直前の対日世論調査の結果の一般的傾向とは齟齬すると考えられ、その関係については、なお説明を必要とすると考えるのが自然であり、このような観点からみると、注⑤の後段の記載は、検定基準の「各教科共通の条件」の「選択・扱い及び組織・分量」中の「(3) 話題や題材の選択及び扱いは特定の事象、事項、分野などに偏ることなく、全体として調和がとれていること。」「(4) 図書の内容に、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。」「(8) 図書の内容の組織及び相互の関連は適切であること。」に抵触する虞があったということができる。したがって、前述の「原文記述はやや低姿勢であるから、見直しの必要がある。」という検定意見の趣旨が、原文記述の前記齟齬などを指摘して、前記検定基準に対する抵触をいうものであれば、その当てはめ判定には理由がないとはいえないと考えられる。

(三) しかしながら、「原文記述はやや低姿勢であるから、」という意見の趣旨は、単に記述の「姿勢」の在り方を問題にしたものであるか、又は右のような検定基準に対する抵触の事実をいうものであるか、判然としないと言わざるを得ない。

4  およそ検定意見は、合否の決定という行政処分の前提となる公権力の行使行為であるから、その趣旨と理由は、いずれも一定の明確性が要求されるものと解すべきである。この観点から見ると、前述のとおり、「原文記述はやや低姿勢であるから、」という理由で記述の修正を求めた検定意見の通知は、それが当てはめた検定基準が不明であり、右の明確性を欠くものであったことは明らかであって、右の検定意見の通知には看過し難い過誤があるというべきであり、文部大臣にはその裁量権を逸脱した違法があるということができる。また、前述の(第三、二、1参照)裁量基準の解釈又は裁量基準に対する当てはめにおいて、慎重で抑制的かつ厳格な考慮と姿勢を必要とするという制約にも違反したといわざるを得ず、この点においても、文部大臣に裁量権の濫用があったと認めるのが相当である。

七  注⑤に対する検定意見に対する適用違憲の主張について

1 原告は、文部大臣の注⑤に対する検定意見の通知は、適用違憲であるとも主張する。その趣旨が前出の運用違憲のみをいうものであれば、入江調査官がこの点の検定意見を検定審議会の答申を受けることなく通知したとしても、これを運用違憲ということができないことは、前記第二で認定判断したとおりであるから、原告の主張は理由がない。

2 しかしながら、原告の右主張は、憲法九条等にいう平和主義に反するという適用違憲をいうものと解する余地もあるので判断するに、本件全証拠を総合するも、前記認定のとおりの当時の政府声明のいう事実関係以外の事実関係を認めることができないところ、その事実関係によれば、平成三年六月二六日に日本を出発してペルシャ湾海域において機雷の除去作業に当たった海上自衛隊の掃海艇等の派遣は、自衛隊法九九条の規定に基づき、我が国の船舶の航行の安全を確保するために、その当時この海域において湾岸危機に際してイラクが敷設し、なお広域に多数残存していたためその除去には相当の日月を要する状況にあったという機雷の除去を目的として行われたものであり、その際には、すでにイラクは正式停戦のための国際連合安全保障理事会決議六八七を受諾していたと認められ、正式停戦はすでに成立していたと認められる状況にあったと認められるのである。そうすると、右のような事実関係の下で、教科書調査官が、注⑤の記述に対して、前述のとおり、「掃海艇派遣は、湾岸戦争終了の後に、我が国の船舶の航行の安全を図るために派遣されたものであるという時期、目的の記載がなく、これを書き込む修正を行う必要がある。」という検定意見、及び「掃海艇派遣に関して東南アジア諸国の意見を聞くべきかは疑問であり、原文記述はやや低姿勢であるから、見直しの必要がある。」という検定意見を通知したことをもって、憲法の平和主義に違反するとまではいうことができないから、原告の適用違憲の主張も理由がない。

第八  検定意見通知の際の文部大臣の注意義務違反について

一  原告は、文部大臣の検定意見の通知が教科書調査官による口頭告知の方法で行うことがやむを得ないとしても、書面による通知の場合と異なり、口頭通知には誤解を生じやすいという性格があるから、特に通知を受ける相手方が通知の内容を正確に理解し、かつ、これに対応し得るようなものでなければならず、対象となる記述の欠陥の指摘とその理由について、検定意見の趣旨が正確に伝わるよう、明確で一義的な形で通知する注意義務があるとし、入江調査官の「テーマ(6)」と「テーマ(8)」に対する検定意見の通知に関しては、(1) 「テーマ(6)」全体に対する口頭告知、(2) 「テーマ(6)」の湾岸戦争に関する注①注②に関する口頭告知(一二月一日の補足説明に関する口頭告知を含む。)、(3) 「テーマ(8)」の「氷川清話」の引用文とこれに関する注⑥に関する口頭告知、(4) 「テーマ(8)」の掃海艇等の派遣に関する注⑤に関する口頭告知、(5) 「テーマ(8)」のマレーシアの華語新聞の見出しに対する検定意見の口頭告知、(6) 一二月一日の事後相談の場における小林メモの手渡し、(7) 一二月一日にマレーシアの華語新聞の見出しの撤回を迫ったという行為について、右の注意義務違反があり、かつ、違法であるから、入江調査官につき公務員の不法行為が成立すると主張する。

二  そこで検討するに、およそ検定意見の通知においては、これを行う教科書調査官において、その内容、趣旨及び理由を明確に告知して被告知者において誤解の生ずることがないように配慮すべき注意義務があると解することができるが、このような口頭通知の際の明確性を要求する注意義務違反の問題は、検定意見が成立している場合には、特に別途の不法行為が成立するという事情のある場合を除き、原則としてその裁量権の行使に関する違法(逸脱又は濫用)の問題として考慮することができ、検定意見の通知自体の違法性の問題となるものと解される。したがって、検定意見として成立していると認められる(1) 「テーマ(6)」全体に対する口頭告知、(2) 「テーマ(6)」の湾岸戦争に関する注①注②に関する口頭告知、(4) 「テーマ(8)」の掃海艇等の派遣に関する注⑤に関する口頭告知、(5) 「テーマ(8)」のマレーシアの華語新聞の見出しに対する検定意見の口頭告知に関する前記の注意義務違反の問題は、右の各検定意見の違法性の問題としてこれを判断するのが相当であり、(1)ないし(4)の検定意見の通知に関する違法性の判断は、先に認定判断したとおりであるが、なお別途の不法行為が成立しているというのが原告の主張の趣旨であると解されるので、その観点から再度右各検定意見について検討する。

1 「テーマ(6)」全体に対する検定意見の告知について

(一) 前記認定のとおり、入江調査官は、「テーマ(6)」の全体について「テーマの関連で取り上げられている内容が不明確であり、素材も適切であるとはいい難い。」という趣旨の発言をし、「「テーマ(6)」の全体について見直してほしい。」という趣旨の発言もしていたものと認められ、前記指摘事項一覧表の記載と、続いて告知された検定意見の内容もその全体に対する検定意見の理由となっていたと解されることなどを総合勘案すると、「テーマ(6)」全体に対する検定意見の通知が、内容又は趣旨が不明確であり、理由を具備しないもの、又は理由が不明確であるということは必ずしもできない。したがって、この点において、入江調査官の告知方法がその注意義務に反していたと認定することはできない。

(二) 原告は、「テーマ(6)」全体に関しては、入江調査官の発言から検定意見の趣旨を汲み取ることはできず、むしろその後の告知内容の前置き、あるいはまとめとしてなされたと受け止めるのが自然であると主張するが、右認定に照らし、右主張は理由がない。

2 「テーマ(6)」の湾岸戦争に関する注①注②に関する口頭告知(一二月一日の事後相談の場における説明等を含む。)について

(一) 前記認定によれば、入江調査官は、「テーマ(6)」の注①に関して、「作戦は秘密のうちにやるものであり、このようなことを言うとは思えない。」との事実の存否に関する疑問を投げかけた上、資料提出の約束がされたものと認められ、注②についても、同様の疑問が提示された後、資料提出の約束がされたものと認められ、いずれも、その発言の趣旨と関係者の認識等を合理的に解釈すれば、「テーマ(6)」の注①注②に対しては、「記述内容が事実であるかについては疑問があり、提出された適切な資料により事実の確認ができない場合は、記述の修正を求める。」という趣旨の条件付きの検定意見が告知されたと認められることは前述のとおりであり、特に明確性を欠いていたと認めるべき証拠はない。また、前記認定のとおり、原告ら被告知者も同様の趣旨でこれを聞いており、概ね同様の理解をしていたと認められるから、右の認定の検定意見の内容は、必ずしも単純なものとはいえないが、入江調査官の発言の趣旨とこれを聞いた関係者の認識等を合理的に判断すれば、右のような検定意見があったという理解が特に困難なものであったとはいえない。したがって、右の入江調査官の検定意見の告知の方法が、前述の公務員の注意義務に違反して不法行為を構成するとはいえない。

(二) 原告は、仮に右注①注②に関する入江調査官の発言が検定意見ではないとすれば、検定意見でないと断わることなく極めて強い疑問形で発言されているから、口頭告知の際の注意義務に違反し違法であると主張するが、右認定のとおり、右発言は、検定意見の通知と認定することができるのであるから、原告の右主張は前提を欠く。

また、原告は、一二月一日に入江調査官から注①注②に関して「安定した評価の定まった資料で書いてほしい」旨を述べられたと主張するが、この点を供述する中村証人の証言は曖昧であり、右の事実はこれを認定することができない。

3 「テーマ(8)」の掃海艇等の派遣に関する注⑤に関する口頭告知について

(一) 「テーマ(8)」の注⑤の記述について「掃海艇は、湾岸戦争終了後、我が国のタンカーなどの船舶の航行の安全を図るために派遣されたものですから、それが落ちていますね。東南アジアの国々については、声を聞かなければならないのですかねぇ。少し、低姿勢ではないですか。」と述べた入江調査官の発言については、関係者の認識等を総合すると、「注⑤の掃海艇派遣に関する記述には、湾岸戦争終了の後に、我が国の船舶の航行の安全を図るために派遣されたものであるという時期、目的の記載がなく、これを書き込む修正を行う必要がある。」という検定意見と「掃海艇派遣に関して、東南アジア諸国の意見を聞くべきかは疑問であり、原文記述はやや低姿勢であるから、見直しの必要がある。」という検定意見が通知されたと認定することができることは、前述のとおりである。また、右認定の検定意見の通知は、前記認定を勘案すれば、入江調査官の右発言の内容を聞いた関係者において、そのような検定意見が通知されたという理解が困難なものであったとは認められない。したがって、右の入江調査官の検定意見の告知の方法が、公務員の注意義務に違反して不法行為を構成するとはいえない。

(二) この点についての原告の主張は、入江調査官の「東南アジアの国々に意見を求める必要はない。このような⑤の記述は低姿勢にすぎるのではないか」という趣旨の発言が、仮に検定意見ではないとしても、という前提で違法をいうものであるから、前記のとおり、検定意見として成立している以上、右主張は前提を欠いて失当である。

4 「テーマ(8)」のマレーシアの華語新聞の見出しに対する検定意見の口頭告知について

(一) 前記認定によれば、入江調査官は、「テーマ(8)」のマレーシアの華語(中国語)新聞の見出しと、その注⑦の「日本が統治していた時期、日本軍が大虐殺を行い、三〇〇余の白骨が荒野に埋まっている、という意味。」という解説文の記載に関して、「どうしても載せるのですか。載せるのであれば、それなりの配慮をしていただきたい。」という発言をしたことが認められ、この点は、「新明日報の見出しを載せるのであれば、他の箇所との記載に配慮していただきたい。」という趣旨の検定意見が通知されたと認定することができるものである。この点についても、前記認定のとおり、原告ら被告知者も同様の趣旨でこれを聞いており、概ね同様の理解をしていたと認められるから、右の認定の検定意見の内容は、入江調査官の発言の趣旨とこれを聞いた関係者の認識等によれば、右のような検定意見があったという理解が困難なものであったとはいえない。したがって、`右の入江調査官の検定意見の告知の方法が、公務員の注意義務に違反して不法行為を構成するとはいえない。

(二) 原告は、この点について、入江調査官の右発言は、何が問題なのかという理由を明示しないものであり、いわば「削れ」という結論のみを押しつけ威赫するものであると主張するが、前述のとおり、検定意見においてどの程度の理由を付するかは、その検定意見の内容、趣旨によって一律には決まるものではないと考えるべきであるところ、右の発言と検定意見の内容に照らせば、右の検定意見に理由不備の違法があったとは言い難く、これを前記注意義務違反ということはできないから、違法を認めることはできない。また、右検定意見を「削れ」という結論を押し付けるものであるとは解することはできず、この点の原告の主張は失当である。更に、原告は、一二月一日の中村幸次との面談において、「これは何ですか、どうしても出さなきゃならないものか」と理由を明示することなく撤回を迫ったと主張するが、入江証人と中村証人の各供述に照らして、右のような事実を認定することはできず、この点の原告の主張も理由がない。

三  次に、原告は、入江調査官の発言の中で検定意見と認定することができない部分についても、前記注意義務違反があると主張するので検討する。

1 「テーマ(8)」の「氷川清話」の引用文とこれに関する注⑥に関する口頭告知について

(一) 前記認定のとおり、「氷川清話」引用文等に対する検定意見は、「都合の良いところばかりを抜き出している感があるので再検討していただきたい。」というものであったが、右検定意見の対象は、「脱亜論」と「氷川清話」の各引用文であり、注⑥はこれに含まれていなかったと認められる。また、「都合の良いところばかりを抜き出した感がある」という意見の対象が主として「氷川清話」の「朝鮮は昔お師匠様」であったことは容易に判断することができたと認めることができるから、この点で、入江調査官に公務員の不法行為が成立すると認めることはできない。

原告は、更に「氷川清話」の中から前記引用文のみを抜粋したことが問題なのか、「氷川清話」そのものを取り上げたことが問題なのか不明であると主張するが、検定意見の趣旨を自然に解釈すれば、前記引用文のみを抜粋することが「都合の良いところばかり抜き出した」に当たるという趣旨であることは明らかであり、「氷川清話」を取り上げたことに対する検定意見ではないことは、自然に理解することができると解され、そのことも容易に理解することができたと考えられる。したがって、右の検定意見についての入江調査官の告知方法については、特に前記注意義務に違反する行為があったということはできない。

(二) もっとも、前記認定のとおり、入江調査官は一二月一日の事後相談の際に中村幸次に甲三の九の小林調査官作成メモを手渡しており、右メモには右注⑥に言及した記載があったと認められるから、原告は、この点を捉えて、あたかもこれが全て検定意見であるかのように手渡しているから、前記口頭告知との間で齟齬があり、違法であると主張するものと解ざれるが、前記認定のとおり、一二月一日の事後相談は検定意見の通知が終了した後の事後的ないわゆる行政指導であったと認められ、この際の教科書調査官の言動をもって検定意見の一部を構成するものと認める余地はなく、通知済みの検定意見について事実上補足的な説明をすることがあっても、その内容をもって検定意見の新たな内容と認定することはできないと解すべきことは前述のとおりである。したがって、入江調査官が手渡したメモ中に注⑥の記載があったとしても、このために通知された検定意見に齟齬があるということはできない。なお、通知された検定意見の内容に含まれない事項が事後の行政指導の場で告知されたとしても、右の含まれない事項については、事後的な行政指導に関する別個の不法行為の問題として考慮すべきものと解すべきである。したがって、これらの関係に照らせば、入江調査官の検定意見の対象に注⑥が含まれていなかったことに関する原告の注意義務違反の主張は、理由がない。

2 一二月一日の検定意見の内容に関するメモの手渡しについて

(一) 既に認定した事実によれば、一一月二〇日に提出された修正表(第一次修正表)を見た入江調査官は、通知した検定意見の趣旨が十分に理解されていないと考え、異例の措置ではあるが、一二月一日の事後相談の際に、中村幸次に内部資料である小林調査官作成メモ等を手渡し、「良く研究してほしい」という趣旨を告げたことが認められる。前述のとおり、右の事後相談の場における教科書調査官の言動は、既に通知が終了している検定意見の内容を追加、修正する性質のものではないから、その際には前記検定意見通知に関する注意義務が存するということはできず、右の手渡し行為をもって前述の検定意見通知に関する注意義務に違反する行為と認定する余地はない。

(二) 原告は、この点について、仮に小林メモ(甲三の九の一枚目)が検定意見とはいえないものとしても、そのようなペーパーを一部検定意見でない部分があることを明示することなく手渡した行為そのものが違法であると主張するから、右注意義務違反以外の公務員の不法行為が成立すると主張するものと解されるが、前記認定事実によれば、入江調査官のメモの手渡しは、検定意見の理解を促進するための参考資料を提供するものであったと認められ、そこに公務員の不法行為を認めることはできず、原告の右主張は理由がない。

3 一二月一日にマレーシアの華語新聞の見出しの撤回を迫った行為について

原告は、前記認定の「テーマ(8)」のマレーシアの華語(中国語)新聞の見出し等に対する検定意見の通知の後、入江調査官は、一二月一日の中村幸次との面談の際に、「これは何ですか、どうしても出さなきゃならないものか」と理由を明示することなく撤回を迫り、これは不法行為を構成すると主張するのであるが、入江証人と中村証人の各供述によれば、その際の入江調査官の発言の趣旨は「どうしても出さなければならないのですか」というものであったと認められ、撤回を迫ったと認定すべきものではなかったと認められるから、原告の右主張は、理由がない。

四  以上のとおりであり、検定意見の告知方法等に関する入江調査官の不法行為をいう原告の各主張は、いずれも理由がない。

第九  不法行為と原告の損害

一  以上の認定によれば、本件申請図書中の「テーマ(6)」と「テーマ(8)」に対する文部大臣の検定意見一〇個の内、「脱亜論」と「朝鮮は昔お師匠様」の各引用文等に対して通知された「都合の良いところばかりを抜き出している感があるので再検討していただきたい。」という検定意見、及び「テーマ(8)」の注⑤の後段の記述に対して通知された「掃海艇派遣に関して東南アジア諸国の意見を聞くべきかは疑問であり、原文記述はやや低姿勢であるから、見直しが必要である。」という二個の検定意見は、いずれも違法と認められ、これまでの認定によれば、右の各検定意見の通知において文部大臣に故意又は過失があったと評価することができるから、右二箇の検定意見の通知については、国家賠償法一条にいう公務員の不法行為が成立するものと認められる。

二  そこで、原告の損害について検討するに、原告は損害賠償として慰藉料(一〇〇万円)のみを主張するところ、前記認定事実によれば、原告は文部大臣の検定意見等を原因として最終的には「テーマ(6)」と「テーマ(8)」に対する執筆を断念するに至ったというのであるから、原告に著しい精神的苦痛が生じたことはこれを認めるのが相当である。そこで、これに対する慰藉料の額を検討するに、原告の右精神的苦痛は、原告が違法と主張する「テーマ(6)」と「テーマ(8)」の各検定意見によるものと一応考えることができるから、原告が被告に賠償を求めることができる慰藉料の額は、右の違法と認定される検定意見の数に鑑み、これを二〇万円と認めるのが相当である。

第一〇  結論

以上によれば、本件原告の請求は、被告に対して二〇万円とこれに対する訴状送達の日の翌日である平成五年七月一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法六一条、六四条(旧民訴法八九条、九二条)を適用し、仮執行宣言の申立てについては、不必要であると認められるからこれを却下することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官慶田康男 裁判官千川原則雄 裁判官篠原康治)

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